に火花を散らして書き立てた結果だということが解《わか》るし、母や兄がまたどんなに困っているかということも想像できるので、不断の葉子なら遠くからやって来たこの父親を、そのまま帰すはずもなかったが、彼の姿を見ると、ちょっと頬《ほお》を染めただけで、顔も見せないようにしていた。少し離れていた庸三も見て見ぬふりをしていた。
「縁談があるんですって。」
葉子は言っていたが、東京では若い人たちに騒がれていた、いつも葉子に忠実であった彼女も、汽車の時間の都合で、挨拶《あいさつ》する隙《ひま》もなく連れて行かれてしまったのであった。
葉子が玄関わきのサロンで黒須に逢《あ》っているあいだ、庸三は奥の座敷で莨《たばこ》をふかしていた。二人の話し声が聞こえ、軽い葉子の笑い声もしたが、何を話しているかは解らなかった。
「カフエでも出すなら、金はどうにでもする。貴女《あなた》ならきっとさかるに違いない。――あの人そんなこと言ってるの。」
黒須を帰してから葉子は庸三の傍《そば》へ来て言うのであった。
「でもあの人たちとうっかり組めないくらいのことは、私にだって分かっているわ。」
葉子は笑っていた。
「そうそう、あの男あの事件の直後、僕の留守へ三四人でやって来て、ひどく子供を脅《おど》かして行ったそうだよ。留守をつかうんだろうとか、お前の親父《おやじ》の名声ももう地に墜《お》ちたとか言って……。あの朝の旅館の会見が、悪い印象を与えたんだ。あの恋愛も、僕が君の背後にいて画策したんだというふうに気を廻してしまったんだ。」
「今は何でもないんだけれど。」
庸三もあの時、新聞社の客間では、お互いに笑って会釈したくらいだった。
日暮方になると、二人は何か憂鬱《ゆううつ》になった。二人きりの世界の楽しい瞬間もあるにはあったが、永く差し向いでいるときまってやり場のない鬱陶《うっとう》しさを感ずるのが、庸三の習癖であった。理由もなく何か満ち足りない感じがいつもしていたし、世間からの呪詛《じゅそ》や、子供たちの悩みも思われて、彼の神経はいつも刃物をもって追い駈《か》けられているにも比《ひと》しい不安に怯《おび》えていた。それでなくとも、眩惑《げんわく》の底に流れているものは、いつも寂しい空虚感で、それを紛らすためには、絶えず違った環境が望ましかった。
「ちょっとホテルヘ行ってみない?」
葉子は誘った。
庸三はホテルのサルンへ顔出しするのも憚《はば》かられたが、ちょうど空腹も感じていたので、しばらくぶりで食堂へ入ってみたくもなった。ホテルではラジオも聞けたし、註文《ちゅうもん》すればバスも用意してくれた。
恋愛事件前後、瑠美子は師匠のところへ還《かえ》っていた。二人は内から門に錠をおろして、地続きの隣りの木戸から出た。そして砂地の道を横切ってだらだらした坂をのぼると、そこがホテルの玄関であった。ラジオは洋楽の演奏であった。庸三は震災前に、庸太郎によってやっと世界の偉大な音楽家の名や曲目を覚えはじめ、子供の時から聞き馴染《なじ》んで来た義太夫《ぎだゆう》や常磐津《ときわず》が、ビゼイやモツアルトと交替しかけていた時分だったが、この音楽ほど新旧の時代感覚を分明に仕切っているものはなかった。
食堂の開くのにはまだ少し間があった。庸三はサルンの片隅《かたすみ》に椅子《いす》を取ったが、葉子も少し離れたところで、ラジオを聴《き》いていた。彼女は何かしらトリオらしい室内楽の美しい旋律のなかから、自身の夢想を引き出そうとするように耳を聳《そばだ》てていたが、楽器の音を聴いていると、少し頭脳《あたま》が安まるくらいの程度であった。
撞球室《どうきゅうしつ》の入口のドアの上部の磨硝子《すりガラス》に明りがさして、球の音も微《かす》かに洩《も》れて来た。庸三はどこかそこいらにかの青年の幻がいるような気もしたが、葉子が逗子に行かない前から彼の予感にあったあの恋愛も、現実面へ持ち来たらせられてみると、ひとたまりもなく砕けてしまったのであった。庸三がその結婚の実を結ぶことを希《ねが》ったのは嘘ではなかったが、巧く行きそうもないことを望んだのも真実であった。
二人はやがて食堂にいた。
「君はマルクス勉強するつもりだったの。」
庸三は葡萄酒《ぶどうしゅ》のコップを手にしながら、揶揄《からか》い面《がお》で訊いてみた。
「私がお嬢さんすぎると言うんでしょう。あの人だって坊っちゃんよ。」
プロレタリヤ運動もまた目に立つほど興《おこ》っていない時分のことで、庸三はマルクスの学説のどんなものだかも知らなかったが、そういった時代の一つの雰囲気《ふんいき》には胸を衝《つ》かれた。かつて草葉《そうよう》が画《え》をかいてやると言って、葉子から白地の錦紗《きんしゃ》の反物を取り放しにしているということから、あの人たちにはすでにそういった、有る処《ところ》から取ってやるのが当然だという、生活の必要から割り出された太《ふ》て腐れの感情があるのだと、葉子は話して、
「草葉さんはいつ約束の金をくれるんだと言って、よく催促したものよ。私が母からもらって持って行ったお金もみんな使ってしまって。」
しかしこのマルクス・ボオイもブルジョアの一人|息子《むすこ》だけに、葉子が想像したほど、内容にぶつかって行くのは容易でなかった。そうするのはやはり普通の世間の令嬢のような、舅姑《しゅうとしゅうとめ》にも柔順で、生活も質素な幾年かを、じっと辛抱しなければならないのであった。恋愛だけを切り放して考えることもできなかった。
ある日の午後、庸三と葉子はまだ秋草には少し早い百花園を逍遙《しょうよう》していたが、楽焼《らくや》きに二人で句や歌を書きなどしてから、すぐ近くの鳥金へ飯を食べに寄ってみた。そこは古くからある有名な家《うち》で、どこにいても誰とも顔の合うことのないように、廊下や小庭で仕切られた芝居の大道具のような古風な幾つかの部屋をもった落着きのいい家であった。
いつかも月の好い秋の晩に、水の好きな葉子に促がされて、濛靄《もや》のかかった長い土手を白髯橋《しらひげばし》までドライブして、ここで泊まったことがあったが、怪談物の芝居にあるような、天井の低い、燻《いぶ》しのかかった薄暗い部屋で、葉子はわざと顔一杯に髪を振り乱して、彼にのしかかって来たりしたのだったが、すでに二つの恋愛事件で、自身も苦しみ庸三もさんざん苦い汁《しる》をなめて、憎悪の言葉さえ投げつけたあとでは、気分の融《と》けあうはずもなかった。
名物の蜆汁《しじみじる》だの看板の芋の煮ころがしに、刺身鳥わさなどで、酒も二猪口《ふたちょこ》三猪口口にしたが、佞媚《ねいび》な言葉のうちに、やり場のない怨恨を含んで、飲みつけもしない酒の酔いに目の縁をほんのりと紅《あか》くした葉子が、どうかするとあの時の新聞記事のことで、ちくちく愚痴をこぼすので、庸三は終《しま》いにはただ卑屈に弁解ばかりもしていられなかった。
風呂《ふろ》に入ってから、二人はいつかの陰気な居間で休んだのだったが、しばらくすると葉子は細紐《ほそひも》をもって彼にのしかかって来たかと思うと、悪ふざけとも思えない目色《めつき》をして、それを庸三の首に捲《ま》きつけてしまった。
「わたし先生を殺すかもしれないことよ。殺しても飽き足りないくらいよ。」
葉子はぎゅうぎゅう紐を締めた。
庸三は笑っているような泣いているような、目も口も引き釣った葉子の顔を下からじっと見詰めながら笑っていた。
「ああいいよ、殺したって。」
葉子は馬乗りになって、紐を少し緩《ゆる》めたり、強く締めたりしていたが、終いに庸三も呼吸が苦しくなって来たので、痛そうに顔を顰《しか》めて紐へ手をかけた。
紐をゆるめて跳《は》ね返るまでには、半分は本気で半分は笑談《じょうだん》のような無言の争闘がしばらく続いたが、起きあがってみると、ぐったりとした吭笛《のどぶえ》のところは、手でさわったり唾《つば》を呑《の》みこんだりするたびに、腫物《はれもの》のような軽い痛みを感じた。
葉子の目に、そこに憎みきれない狡獪《わるごす》い老人が、いくらか照れかくしに咽喉《のど》を撫《な》ぜ撫ぜ坐っていた。
二十一
じりじり暑い西日が、庭木の隙《すき》や葦簾《よしず》を洩れて、西だけしかあいていない陰鬱《いんうつ》な彼の書斎の畳に這《は》い拡がるなかにいて、庸三はしばらく葉子と離れて暮らしていた。社会面記事から惹《ひ》き起こされた二人の醜悪な心情から、その後もいろいろ傍系的な不快な事件がおこって、ある時などは二人立ちあがって、部屋中押しつ押されつして争ったこともあった。どんな場合にも彼は腕力は嫌《きら》いであったし、剛情とか片意地とかいった、相手を苛立《いらだ》たせるような、女性にありがちな気質上の欠点をもたない葉子のことなので、油紙に火がついたように捲《まく》し立てるとか、あまりにも人を侮辱したような行動に出《い》でない限り立ちあがって争うなぞということは、自発的にはできるはずもなかったが、揉《も》みくしゃにでもしてしまわなければ鬱憤《うっぷん》が晴れないように、ヒステリックに喰《く》ってかかられる場合には、その二つの腕を抑えて、じりじり壁に押しつけるくらいのことは仕方がなかったし、膝相撲《ひざずもう》でも取るように、組んず釈《ほぐ》れつして畳のうえをにじり這うこともやむをえなかった。
それはある時彼女のたっての要請に応じて、一つの誓文を書かされた時であった。と言っても恋の起請《きしょう》誓紙といったような色っぽいものではなくて、今後一切彼女のことに関する限り、作品には書かないという誓いで、もし少しでもそれを書いた場合には、賠償金大枚千円なりを異議なく支払うべきものなりという、子供|瞞《だま》しのような証書であった。
庸三は言わるるままに、それを原稿紙に無造作に書いた。
「これでいいね。」
「どうもありがとう。」
葉子はそれでいくらか安心したように、今まで悲痛な色をうかべていた顔に微笑の影が上って、証書を畳んでハンドバッグの中に仕舞いこんだものだったが、いつ何時《なんどき》どういうことを書かれるか解《わか》らないという不安が全く除かれたわけでもなかった。あの記事以来葉子の目に映るものは二重にも三重にも働き出して来る彼の性格であった。彼は悪党だとは思えないにしても、安心すべき善人でもなかった。こんな盲目的な情熱が、この男にあったのかと驚かれもし、今となってはある場合むしろそれが迷惑でもあり、彼女の身のうえの思い設けぬ不幸でさえもあると思わるるほど溺愛《できあい》している恋慕の底に、何かしらいつも遊戯とかまたは冷たい批判とかいうものとは異《ちが》った作家気質というようなもので、押し隠されていることを、彼女は感じ出していた。庸三は恋愛にかけては、まるで何のトリックも理性もない凡夫にすぎないのであったが、一度ならず二度ならず手許《てもと》へ引き寄せてみようとする執拗《しつよう》さには、かかる体験の副産物をも計算に入れていないわけではなかった。現実にいつも美しい薄もののベイルをかけて見ている葉子の目には、自身の幻影が、いつも反射的に、自身に対するあらゆる異性の目が、憧憬《しょうけい》と讃美に燃えているように見えた。今まで窮屈な家庭に閉じこもって、丸髷《まるまげ》姿の旧《ふる》い型の一人の女性しか知らず、センセイショナルな世間の恋愛事件をも冷やかに看過して来た不幸な一人の老作家を、浮気な悪戯心《いたずらごころ》にせよ打算にせよ、またはいくらかの純情があったにせよ、とにかくその冷たそうにみえる一と皮を※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、281−下−10]《む》しり取って、情熱の火を燃やしたてたということだけでも、葉子は擽《くすぐ》ったい得意をひそかに感じていたのであったが、それがかえって逆作用を呈して自身に仇《あだ》をなす結果となったことは、何としても心外であった。
庸三も証文を取られたことは
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