すが、夢というか慾望というか、いつもそれに負けてしまうんです。」
「しかし先生のお心持はどうですか。今までじっとあの人を見詰めておいでになって……。」
「いや、見詰めてもいなかったんですが、何か始終求めて止《や》まないものがあるんですね。」
庸三はそう言って、ぽつぽつ本音《ほんね》の憎悪の言葉を口にし初めた。そして最後に、
「これはここだけのお話ですから、どうぞそのつもりで。私一|箇《こ》の批判ですから、書いちゃいけないんです。」
葉村氏はやがて帰って行った。
翌朝十時ごろに帳場へ出て行ってみると、そこに庸太郎がすでに起きていて、葉村氏の勤めている社の朝刊を拡《ひろ》げて読んでいた。小夜子はいつものことで、薄暗い中の間で明々《あかあか》と燈明のとぼっている仏壇の下にぴったりと坐って、数珠《じゅず》を揉《も》みながら一心にお経をあげていた。人生に多くの夢を抱《いだ》いていることは彼女も葉子も同じだったが、長いあいだ職業的に鍛えあげられて来ているだけに、お嬢さん気質のぬけきらない葉子に比べて、心に一筋筋金が入っていた。信心は母に植えつけられた過去への贖罪《しょくざい》でもあったが、その日その日の彼女の自制と希望でもあった。ちょうどそれは毎朝の口を漱《すす》いだり、歯を磨《みが》いたりするのと同じに、それをしないと気持が一日散漫であった。
庸三は昨夜も遅くまで花を引いて、硝子《ガラス》障子の白むころに疲れて寝たのであった。庸太郎も仲間に加わっていた。
「何か出ている?」
庸三はちょっと聞いただけで、新聞を覗《のぞ》く気にもなれなかった。好いにしろ悪いにしろ、その記事が彼と葉子のあいだに、いずれからも超《こ》えがたい一線を引いたはずであった。
「ああ、これあ少し悪いな。」
庸太郎が言うので、彼も少し気になって記事にちょっと目を通してみた。確かにそれは葉村氏の理解に信頼して、庸三の個人的に洩《も》らした微《かす》かな憎悪の言葉が、粉飾《ふんしょく》と誇張に彩《いろど》られたもので、むしろ葉村氏の心持で忖度《そんたく》された庸三の憎悪を、彼に代わって彼女に投げつけているようなものであった。
庸三は若い記者の思いやりを、一応感謝はしたものの、擽《くす》ぐったくもあった。にわかに庸三は憂鬱《ゆううつ》になった。
「これじゃ何だか葉村君の呑込《のみこ》みがよすぎたようだ。」
「葉子さんに気の毒ですよ。それに毒の花なんて出ているけれど、これはボオドレイルのあれだけれど、意味が全然違いますよ。」
そのころ庸太郎はその詩人の悪魔主義にも影響されていた。行動にもそれが窺《うかが》われた。
しかし庸三は綺麗事《きれいごと》で済まされないことも感じていたので、目を瞑《つぶ》るよりほかなかった。
小夜子は興味がなさそうに、やがて仏壇を離れて来ても、その問題には触れようともしなかった。ずっと後に気のついたことだが、小夜子はそのころすでに彼の子供の友達であった。
二三日してから、ある晩もまた庸三は小夜子の家《うち》で遊んでいた。
彼はそこで落ち会ったジャアナリストの一人と、川風に吹かれながらバルコニイへ出て、両国から清洲橋《きよすばし》あたりの夜景を眺めていたが、にわかに廊下へ呼びこまれた。
「先生お電話ですよ、葉子さんですよ。」
このごろここへ来て手伝っている、小夜子の姪《めい》が低声《こごえ》で言うのであった。
「居ると言った?」
「え、坊っちゃんが……。」
庸太郎が帳場にいたのだった。
「そいつあ困ったな。」
当惑しながら庸三は降りて行った。受話機がはずしてあった。
「いないといってくれればいいのに。」
庸三は庸太郎に言った。
「だって……。」
庸太郎のそういう態度は、彼の気弱さだとも思えたが、強さだとも思えた。しかしそれはずっと後のことで、その時の彼の心理は鈍い庸三に解《わか》るはずもなかった。
受話機を取ってみると、電話は少し遠かったが、熱っぽい葉子の声はだんだんはっきりして来た。かんかんに怒ってでもいて、怨《うら》みを言うかと思っていると、反対に哀願的な態度に出た。庸三はもう遅いとか、明朝にしようとか二三押問答もして、もし新聞記事のことだったら、あれは自分も少し当惑しているところだと、弁解しようとしたが、葉子は興奮をおさえた泣くような声で、
「いいえ、そのことではなしに、どうしても今夜中にお逢《あ》いしなければならないことがあるんですの。今すぐ来て下さるわね。きっとよ。この間の処《ところ》よ。お待ちしてますわ。」
受話機を卸して、庸三は溜息《ためいき》を吐《つ》いたが、自身にも収拾のつかない感じだった。
「どうしたんです。」
「来てくれと言うんだ。」
「行ったらいいでしょう。」
庸太郎が促すように言った。
「じゃ車言ってもらおう。」
小夜子が浪速《なにわ》タキシイへ電話をかけた。
安栄旅館の路次口で車を降りてみると、今さら夜の更《ふ》けているのに気がついた。彼は近頃時間の観念を亡くしていたので、特に夜が短かった。
葉子が路次口から現われて来て、ふらふらと幻のように彼に近づいて来た。
「私今メイフラワにいるんですのよ。」
「どうして?」
「旅館ではちょっと都合が悪いのよ。先生だって危険よ。」
「どうしてだろう。」
「黒須さんが私たちを誤解しているのよ。先生も共謀《ぐる》でやってる仕事だというふうに。」
「ヘえ。」
「でも、ちょっと上がって。マダムいい人よ。」
庸三は誘われるままに、その美容院の中へ入って行った。こちらにいる時分、時折葉子が来ていた家で、犬好きなマダムと懇意にしていた。レストオランのマネイジャをしている主人が、時々横浜からやって来るということも、庸三は彼女から聴《き》かされていた。いつか生後三月ばかりのフォックステリアを、動物好きな咲子のために貰《もら》って来たこともあった。
マダムは住居《すまい》の方で、もう寝ていたが、弟子たちがお茶をもって来てくれたりした。
葉子は神経が亢《たか》ぶっていて、落着きがなかった。
「どこかへ行きましょうよ。私さっきちょっとお宅へも行ってみたのよ。すると一時間ほど前に権藤さんが旅館へやって来て、先生んとこの庄治さんが今お酒に酔って、貴女《あなた》をやっつけると言ってるというのよ。とにかく出ましょう。こちらも迷惑よ。」
二人はまた外へ出た。通りでは店屋《みせや》はどこも締まっていた。横町のカフエや酒場からの電燈の光が洩《も》れているきりだった。スピイドをかけた自動車が、流星のように駒込《こまごめ》の方へと通りすぎた。そのうちに空車が一台やっと駒込の方からやって来たので、急いでそれに乗った。
乗り入れたのは、西北の方角に当たる町なかの花柳地だったが、時間過ぎなのでどこも森《しん》としていた。葉子は広い通りに露出《むきだ》しになっている、一軒の家の前で車をおりて、勝手口の方へまわって、「おばさん、おばさん」と言って、木戸を叩《たた》いていたが、しばらくしてから内から返辞があった。
「私来たことあるのよ。解《わか》るでしょう。でも蔑視《さげす》まないでね。」
そう言われて、庸三はたちまちあの青年|一色《いっしき》のことが思い出された。
「あの人芝居道の人なんかと、この家へ遊びに来たものなのよ。」
やがて玄関の方の戸があいたので、そこから上がって、奥二階の静かな部屋へ落ち着いた。
「何か食べたい。先生どう。」
「食べてもいいね。」
葉子は手提《てさげ》のなかから、ペンとノオトの紙片《かみきれ》を取り出して、三四品|註《あつら》えの料理を書いて女中に渡した。
「御酒は。」
女中が訊《き》くので、
「少し飲みたいの。一本でいいわ。遅くにすみませんけれど。」
四皿の洋食が来るまでには、少し間《ま》もあった。庸三は痛いところに触られまいとして、わざと態度を崩さないように構えていたが、葉子はじりじりする気持をわざと抑えるようにしていながら、それとなし記事に触れて行こうとした。
「みんなそう言ってたわ、あの記事少し酷《ひど》いって。日頃の先生にも似合わない仕打ちだって。」
「あれは葉村君の感違いだよ。」
「だからいつも言ってるじゃありませんか。新聞社の人には一切|逢《あ》わないことにして下さらなくちゃ困りますって。」
「それも場合と相手によるんだ。葉村君ならきっと有利に書いてくれると思ったんだ。僕も繰りかえしてそれを言ったんだが、後で少しばかりの君の批評はしたんだ。しかしあれも今まで新聞に書かれた以上に悪いとも思えないな。」
「世間は何と言ってもいいのよ。先生の口から出たということが重大なのよ。」
「しかしそれが不当な悪口だったら、非難されるのは僕じゃないか。」
「先生は大家よ。私なんかと一つには言えないじゃありませんか。こんな時こそ、私を庇護《かば》ってくれなきゃいけない人なのに、先生は私を突き落とすようなことをしたのよ。先生の言葉一つで、私の運命は狂わせることもできるのよ。」
「僕の言ったことに、そんなに悪意があるとは思わないな。」
そこへ洋食と酒が持ちこまれて来た。
「御免なさいね。こんな話よしましょうね。」
女中は煙草《たばこ》の灰の散った食卓に台拭巾《だいぶきん》をかけて、そこへ通しものと猪口《ちょく》と箸《はし》とを並べた。
初めから解りきったことだったが、葉子にまくし立てられては、防ぎの手はなかった。しかし今夜の彼女は、捲《まく》し立てるには痛手を負いすぎていた。それに今の場合、葉子にとってもっとも大切なことは善後策であった。そしてそれには庸三をして庸三の過《あやま》ちを償わせることが、何よりも必要だと思われた。
そうしているうちにも、葉子は時々聞こえる自動車のサイレンや爆音に聴耳《ききみみ》を立てていた。彼女の神経に、それが黒須の追迹《ついせき》のように思えてならなかった。世間のすべてが――庸三すらもが今は彼女を迫害するのであった。
二十
露骨な争いと、擬装の和解との息詰まるような一夜が明けた。葉子は庸三によって新聞の記事を何とかできるだけ有利に糊塗《こと》しなければならなかったが、庸三もこうして彼女に捉《つか》まった以上逃げをうつ手はなかった。
十時ごろに目がさめると、葉子はトイレット・ケイスの中から化粧道具を取り出して、顔を直していたが、火鉢《ひばち》のなかから鏝《こて》を取り出すと、カモフラジュの形で、わざと手のとどかないところを庸三に手伝わせたりした。庸三は前にも一度、どこかのホテルで鏝をかけさせられたことがあったが、葉子が耳にかぶさるまで蓬々《ぼうぼう》と延びた彼の髪を彼女流に刈り込むようには器用に行かないので、熱い鏝の端が思わず頸《くび》に触って、彼女は飛びあがって絶叫したことがあった。葉子はいつも自身の幻影に酔っていたし、しばしば鏡にうつる黒い深い目にいとおしく見惚《みと》れて「ちょっと見て。私今日美しいわ」などと無邪気に呟《つぶや》くのだった。庸三もそれはそうだと思いこんでいたが、しかし鏝にさわられて絶叫した時のような瞬間々々の表情の美しさをもちろん彼女自身に見ることはできなかった。庸三はもちろん他の男にも同じ表情をしあるいはもっと哀切|凄婉《せいえん》な眉目《びもく》を見せるであろう瞬間を、しばしば想像したものだったが、昨夜のように気分の険しさの魅惑にも引かれた。
昨夜連れこまれた時から、庸三は何か胡散《うさん》な気分をこの家に感じていた。ずっと後になってからここのお神《かみ》の口から洩れたことだと言って、そのころ葉子は例の外科の博士《はかせ》をここへ連れこんで来たものだが、他にも若い人と一緒にタキシイを乗りつけたりした。庸三はこの家が彼以前の葉子の愛人の遊び場所だことは、連れて来られた瞬間に気づいたことだったが、そこまで恥知らずの彼女とも思わなかった。しかし、彼は女中やお神に顔を見られるのがいやさに、わざと葉子を床の前にすわらせて、自身は入口を後ろにしていた。入口の襖《ふすま
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