こんなこと言うのよ。世間の噂《うわさ》も煩《うるさ》いし、牛込の家を売るたって、今すぐというわけにもいかないから、人目にふれない処《ところ》に当分隠れていろというの。それにちょうどいいところがある。沼津とかの町|端《はず》れの高台の方に、懇意な古い宿屋とか別荘とかがあるから、そこへ行っていろと言うの。」
「二人で?」
「ううむ、私一人でよ。」
「引き分けるつもりなのか。」
「そうでもないらしいんだけれど、後から黒須さんが行くから、とにかく先きへ行っていろというの。何でも大分|田舎《いなか》らしいのよ。その時は私もその気になったんだけれど、黒須さんと園田さんに送られて駅へ来てから考えたの。行ったものか止したものかと。でも黒須さんが切符を買ってくれたものだから、まさか乗らないわけにも行かないでしょう。仕方なし乗ったは乗ったけれど、何だか気が進まないの。それでふと止す気になって、次ぎの駅でおりてしまったの。そこへちょうど上りが来たものだからそれに乗ってここへ来てしまったの。」
 誰にも馴《な》れやすくて愛嬌《あいきょう》の好い葉子ではあったが、それだけにまた異性に対して用心深いことは、庸三もかねがね分かっていた。彼はその男の風貌《ふうぼう》や人柄を想像してみて、通俗小説にでもありそうな一つの色っぽい出来事と場面を描いてみたりしていた。
「それでここへ着いてから、私電話で黒須さんと話してみたのよ。そしてこの私たちの問題を、はっきり取り決めるために、一度先生に逢《あ》ってもらいたいと言ったの。――御免なさい、お断わりしないで、先生を引っ張り出したり何かして。でもそうするよりほかなかったの。お願いですから、黒須さんにお逢いになってね。」
 そういうことには、至ってあやふやの庸三ではあったが、娘の縁談を取りきめるというほどのことでもなかったし、一応先方の話を聴くくらいのことなら引き受けてもいいのではないかと思った。
「逢ってみてもいいね。こっちから行くのか、それともどこか会見の場所でも決めてあるんだったら……。」
「あの人がここへ来ることになっているのよ。それも明日のお昼ごろということにしたの。あの人、ほんとうに先生と手が切れているかどうか、それも心配らしいんだわ。なおさら先生に逢っていただく必要があるわけなのよ。」
「つまり君がその男に見込まれたというわけなんだね。」
「それもどうだか解《わか》らないけれど……。」
「いずれにしても君がしっかりしていさえすればいいわけなんだが、しかしそういう人の取扱いじゃ園田君も可哀《かわい》そうじゃないか。」
「しかし条件は園田本位でしょうから、私の立場があまり有利じゃないかもしれないのよ。あの人自身の気持の動きはまた別よ。それにあの人だって、私を不利益な立場に陥《おとしい》れて、そこに附けこんで来ようというほど非紳士的でもないでしょうけれど、そういう打算は別としても、とにかく、私に対する条件はあまりよくないでしょうと思うの。」
 葉子の口吻《くちぶり》から察すると、黒須は結婚の話を進めるというよりも、その前提として、葉子自身の結婚生活に入ってからの心構えについて、しっかりしたことを確かめておきたいという希望であろうということは、庸三にも気のつかないことではなかった。果してほんとうに貞淑な家庭婦人となることができるか否か、当てがわれた金額の許す範囲以内で、節約的な生活ができるかどうか――そういった問題が、庸三をオブザアヴァとして黒須から提出されるのではないかと考えた。しかし庸三自身にしても、彼女に園田のような輝かしい前途をもっている青年との結婚生活に入るに当たっては、ぜひとも葉子に要望しなくてはならないはずのもので、その覚悟次第で、この問題を解決するわけだが、しかしそうした葉子の新生活への心構えや決心については、真実《ほんとう》のところ庸三の手にも鍵《かぎ》が握られてあるわけではなかった。鍵は葉子自身のうちにあるはずであった。もしも庸三が保証の立場におかれるとしても、責任をもつわけにも行かないと同時に、葉子の生活の方嚮《ほうこう》を、無理な急角度で転向させようとすることも無意味であった。それは葉子という一人の存在を亡くするというのと同じことであり、従って現在の狂熱的恋愛の発生もないはずであった。
 しかし一方また庸三は別の甘い考え方ももっていた。それは相手次第によっては、彼女もまた日常の万事に気のきいた楽しい家庭婦人となりうるのではないかと思われた。編み物に刺繍《ししゅう》、そんなことも好きであった。ちょっと雑誌を見ただけで、どんなむずかしい編み方も頭へ入れたし、部屋の装飾や料理にも彼女自身の趣味があった。読書も好きであった。文学の才能も、世間で見くびっているほど低劣ではなかった。庸三の傍《そば》にいるお蔭《かげ》で、そうした才能や美徳も、泥土のように見くびられているが、それには群衆心理の意地の悪さがないとは云《い》えなかった。――今も庸三はそういうふうに葉子を買っていたので、園田との結婚でほんとうに彼女の生活が安定する暁には、彼女もするする世の中へ推し出して行けるのではないかという気もしていた。そうしてそれを望んだ。それだけが世間の嘲罵《ちょうば》の彼の償いだと思っていた。恋愛に陥りさえしなかったら、ある程度彼の力で彼女を生かすこともできたはずだとも思えた。それにどんな場合にも文学に縋《すが》りついて生きて行こうと悶※[#「※」は「足へん+宛」、第3水準1−92−36、265−下−8]《もが》いている、葉子の気持も哀れであった。

 翌日女中が黒須の名刺を取り次いで来たとき、二人は辛うじて目が醒《さ》めたばかりであった。昨夜二人で広小路あたりを散歩してから、庸三は再び彼女とともに旅館へ帰って来た。そして風呂《ふろ》へ入ってからも、夜の化粧をした葉子と、水菓子を食べたりしているうちに夜が更《ふ》けてしまった。
「どうぞお通しして。」
 そう言って、葉子はあわてて起きあがって、
「ほかに空《あ》いた部屋ありますわね。」
「あいにく一杯でございますけれど……。」
 若い女中が答えた。
 葉子は当惑した。
「じゃあちょっと待っていただいて……。」
 彼女は女中を手伝って、急いで寝道具を取り片づけ、ちょっと鏡台の前へ行って、顔を直してから、廊下へ出て来客を出迎えた。
 朝の九時ごろであった。庸三はまだ全くは眠りから覚《さ》めないような気分で、顔の腫《は》れぼったさと、顔面神経の硬張《こわば》りとを感じながら、とにかく居住いを正して煙草《たばこ》を喫《ふ》かしていた。
 脊《せ》の高い背広服の紳士が入って来た。颯爽《さっそう》たる風姿で、どこか、庸三が昔から知っている童話の老大家の面影に似通った印象を受けたが、彼は、自分流にずうずうしく落ちついていた。
 茶盆や水菓子の鉢《はち》などが散らかっていた。それに一人の女中が、のろのろと敷布団《しきぶとん》を廊下へ運び出していたらしいので、何かばつが悪かった。
「こちらが黒須さんですの。」
 葉子の紹介につれて、二人は簡単な挨拶《あいさつ》を取りかわしたが、何か妖気《ようき》の漂っているような部屋を、黒須は落着きのない目で見まわしていたが、相当興奮もしていた。
「いや、実は葉子さん、貴女《あなた》が稲村《いなむら》さんに逢《あ》ってくれというもんだから、わざわざやって来たんですがね。」
 これじゃどんなものだかと言った意味の断片的な言葉を口にしながら、険しい目で庸三を見おろしていた。
「そのつもりで、先生にも来ていただいて、お待ちしておりましたのよ。」
 葉子はそう言って、お茶の支度《したく》をしていたが、黒須の低気圧に気がついていたので、さすがに気後《きおく》れがしていた。
「どういうお話ですか、僕でよかったら伺いたいと思いますが……。」
 庸三も口をきいたが、黒須は腹にすえかねることがあるように、何か威丈高《いたけだか》な態度で、金属のケイスから、両切りを一本ぬいてふかしていた。
「無論結婚の取り決めでしょうと思いますが、それについて何か……。」
「いや、それもありますが、それに先立って、失礼ながら梢さんに果してそれだけの誠意があるか否かが問題なのであって、その見究《みきわ》めがつくまで、私も園田の後見役として、とくと梢さんのお心持なり態度なりを見届けなければならない立場にあるので。」
「そのことでしたら、今後葉子自身が証明するでしょうが、今が葉子の過去を清算するのに絶好の時機じゃないかと思うのです。」
 それならこの為体《ていたらく》は一体どうしたのかとでも言いたそうに、黒須は煙草をふかしながら、二人を見比べていたが、庸三という老年の文学者が、蔭《かげ》で葉子を操《あやつ》っている、何か狡獪《こうかい》な敗徳漢のように思われてならなかった。
「とにかく今日は失礼しましょう。いずれまた機会があったら……。」
 黒須は示唆的な表情を葉子に示して、あたふた座を立って部屋を出た。
 黒須を送り出した葉子は、すぐに部屋へ帰って来たが、興醒《きょうざ》めのした顔でぷりぷりしていた。
「悪かったな。」
 庸三が呟《つぶや》くと、
「だって先生が何も言ってくれないじゃありませんか。」
 葉子の声には突き刺さるような刺《とげ》があった。
「だって先が何も言ってくれないじゃないか。僕として何も言うところはないんだ。」
「先生はいつだってそうなのよ。大切なことといったら何一つ考えてもくれなかったじゃありませんか。先生の落ち目になった社会的信用で、この上私を持って行こうったって、それは無理だわ。」
 葉子はヒステリカルにしゃべり立てながら、隅《すみ》の方に散らかっていた庸三の単足袋《ひとえたび》を取って、腹立ちまぎれに、ぴりっと引き裂いた。
 庸三は苛立《いらだ》って来たが、葉子にしゃべりたてられると、それに刃向かう手のないことも解《わか》っていた。抱擁は抱擁、二人の立場は立場と、はっきりした使いわけの器用さも、彼にはなかった。
 やがて葉子は身支度して部屋を出たが、旅館の手前もあるので、少し間をおいてから、彼もそこを出た。葉子が黒須に追い縋《すが》って、この破綻《はたん》を縫い合わせに行ったことを想像しながら。

 ある日庸三は、小夜子の家の、水に臨んだ部屋の一つで、ある大新聞の社会面記者と会談していた。
 最近の葉子の事件について、記者の葉村氏はその前にも会見を申し込んで来たのであったが、迂濶な口を利いて、彼女の結婚に支障を来たすようなことがあってはと、遠のいていれば、そんなことも思われて、わざと断わったのであった。葉村氏の庸三と葉子に対する態度はいつも真面目《まじめ》で自然であった。興味的に掘じくるとか、揶揄的《やゆてき》に皮肉《ひに》くるとかいう種類ではなかった。その日も一応電話をかけて、庸三の意嚮《いこう》を確かめてからやって来たのであった。
「もし先生がお差支《さしつか》えないようでしたら。」
「そうですね。今ならお話ししてもいいかと思うんですけど。」
 葉村氏の姿を玄関口に見ると、帳場で小夜子と話していた庸三は、立ち上がって自身案内した。モダアンな葉村氏の質問はデリケートであったが、古い感覚の庸三は、大人《おとな》ぶった子供っぽいものでしかなかった。
「どうでしょう、今度の事件は巧く行くでしょうか。先生のお見透《みとお》しは?」
「そうですね。僕にもわからないんですが、巧く行くようにと思っています。今度は本物かも知れませんよ。」
「そうですか。僕は葉子さんが、あの断髪にした時に、あの人の心の動きというか、機微というか、何かそういうものを感じましたよ。」
 そんな話がしばらく続いた。
「お書きになるんだったら、この話が巧く進行するように書いて下さい。葉子は世間が言うほど悪い女でもないんですよ。もちろん打算もあるし、野心的なところもありますが、大体が最初の結婚の出発点が悪いんで、あんなふうに運命が狂って来ているんです。文学的才能だって、伸ばせば伸びるはずなんで
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