たり、寂しがらせたりはしたが、ジャアナリズムと一般の世界ではほっとしたようであった。
葉子の行動に、前から関心をもっていた、ある若い新聞記者から、ある時電話がかかって来た。その時も庸三は小夜子の家《うち》にいた。小夜子の家でも、川沿いの部屋の窓近くに、幾株かの若い柳を植えたり、玄関先きの植込みのうえに変わった型の電気|燈籠《どうろう》を掲げたりして、座敷はいつも賑《にぎ》やかであった。
庸三が帳場の卓上の受話機を取ってみると、今度の事件について、何か話が聞きたいというのであった。
「そうですね、僕は二人の結婚がどうかうまく行くようにと思うよりほか、別に何の感想もありませんよ。多少あっても、今は何も言いたくないんですが。」
それ以上|強《し》いもしなかったが、庸三はそれを機会《きっかけ》に、逗子事件のその後の進展について知りたいような好奇心もいくらか唆《そそ》られた。このうえ葉子を手元へ引き寄せてみようとは思わなかったが、嫉妬まじりの興味がないこともなかった。
翌日庸三はしきりに洋装をしたがっている小夜子に言われて、布地《きれじ》を見に、一緒にひつじ屋へ行ってみた。小夜子は身分のある婦人の着る、贅沢《ぜいたく》な支那服ももっていたし、クルベーの持ちものとして、ホテルの夜会で踊ったこともあるので、ドレスや不断着ももっていたけれど、もう型が古くなっていた。
「さあね、洋服は止《よ》した方がいいんじゃないかね。支那服ならいいがね。」
「異《ちが》った意味で、あの人もそう言ったのよ。日本の女が何も身についた和服を棄《す》てて、洋服を着る必要ないって。でも着てみたいのよ。」
小夜子は多くの文壇人や画家や記者を知るようになってから、今まで附き合っていた株屋とか、問屋《とんや》の旦那《だんな》とかいった種類の男が、俗っぽいものに見え、花柳趣味の愛好者である彼らを飽き足りなく思っていた。出入りの芸者は仕方がないとしても、型にはまった一般の待合の女将《おかみ》や女中などとも反《そ》りが合わなかった。彼らの目から見れば、小夜子は毛色のかわった異端者であった。
ひつじ屋で、花模様のジョウゼットを買ってから、四谷《よつや》に洋装学校をもっているあるマダムの邸宅を訪問した。庸三はこのマダムを、ある婦人雑誌社の手芸品展覧会で知ってから、一度その家を訪問して、それから一緒に小夜子の家へ飯を食べに行ったこともあった。マダムは落着きのいい手広い洋館に住んでいて、洋酒の用意などもあった。幾年前かに結婚生活を清算して、仏蘭西《フランス》で洋裁の技術などを仕込んで来た。
がっちりした、燻《いぶ》しのかかった家具の据《す》えつけられた客室で、メロンや紅茶の御馳走《ごちそう》になりながら、しばらく遊んでから、夕方になって三人で銀座へ出てみたが、生活内容を探り合うこともできないほど、何か互いに折合いのつかない気分であった。
翌日、庸三は庸太郎と権藤青年とを相手に、逗子の噂《うわさ》をしていた。
「さあどうしたかね。」
「行ってみましょうか。」
権藤青年は言い出した。
「さっそく金に困ってるんじゃないかと思うがね。相手はブルジョウアの一人|子息《むすこ》だけれど、何しろ学生のことだからね。」
「どんな様子か、僕行ってみましょうか。」
「そうね、もし金が入用なら、少しぐらいやってもいいんだが……。」
庸三は今少し迹《あと》をつけてみたいような気もした。
逗子へ行った権藤が帰って来たのは、その夜の八時ごろであった。庸三はちょうど寝転《ねころ》んでストリンドベルグの戯曲を読み耽《ふけ》っていた。
「葉子さん、椅子《いす》と茶呑《ちゃの》み台とを庭へ持ち出して、ベレイなんか冠《かぶ》って、原稿書いてましたよ。僕が行くと、警戒したようでしたが、お金は欲しいらしいんです。明日あたりちょっと東京へ出る用事もあるから、その時先生にもお逢《あ》いしたいというんです。」
権藤はその場所と時間を決めて来たことをも報告した。
その日になって、庸三は少しばかり金を用意して、行きつけの上野の鳥料理へ行ってみた。そこには広い宴会席が二階にあって、下は漫々とした水のまわりに、様式に変化をもった小窓が幾箇《いくつ》もあった。山がかりの巌から、滝が轟《とどろ》き流れおち、孟宗竹《もうそうちく》の植込みのあいだから、夏は燈籠《とうろう》の灯《ひ》が水の飛沫《しぶき》をあびて、涼しい風にゆらぐ寒竹や萩《はぎ》のなかに沈んでいた。
庸三はその時、宴会場とちょうど反対の側にある、一室離れた二階の小間で持出し窓に腰かけながら、目の下に青黄色い孟宗の枝葉を眺めながら、葉子の来るのを待っていた。
やがて葉子がやって来たが、園田を銀座のモナミかどこかで待たせてあるというふうであった。ここは見えもないので、庸三はほんの少しばかり食べものを通したきりであった。葉子はそわそわ落ち着かなかった。
「権藤さんいやな人! 何か私たちの生活を内偵《ないてい》しにでも来たように、それは横柄な態度なのよ。」
庸三は狡《ずる》そうにただ笑っていた。
「私たちのことは、当分新聞社へ何もお話しにならないようにね。」
「それは僕もそのつもりで……。」
「あの兄さんと言っても、従兄《いとこ》ですけれど――黒須《くろす》という人がいるのよ。もと外務省畑の人で、今は政党関係の人らしいわ。乾分《こぶん》も多勢《おおぜい》あるらしいの。でも立派な紳士よ。その人が園田家のことは、何でも相談に乗っているという関係から、今度のこともその人が引き受けてくれているの。いずれ時機を見てお父さんにも承諾させるが、差し当たり牛込《うしごめ》にある家が売れると、そのうちの一万か二万かの金をそっと融通するから、当分それで家庭をもつようにしようと、そう言ってくれるのよ。その人、奥さんと鵠沼《くげぬま》にいますけれど、ちょっといい暮しよ。奥さんも教養のある人よ。」
庸三の耳には、あまり愉快にも響かなかったが、葉子がそうした落着き場所を得たことは、悪い気持ではなかった。
「素敵だな。」
「でも今は困るの。あの人財布を投げ出して行ってくれはしますけれど、それに手を着けたかないの。何かがつがつしているようで、さもしい感じでしょう。あの人たちお金に苦労したことのない人だけに、なおさらなの。」
それから株や何かで暮らしている両親たちの生活の外廓《がいかく》を、彼女なりの観察の仕方で話しながら、煮立っている鳥には、ろくろく箸《はし》もつけなかった。そして金を受け取ると、無造作にハンドバッグのなかへ押しこんで、
「今度またゆっくりお話ししますわ。今日はこれで失礼さしていただいてもいいでしょう。」
庸三は頷《うなず》いた。
起《た》ちかける葉子は彼の体に寄って来た。別れのキスでもしようとするように。庸三はあわてて両手でそれを遮《さえ》ぎりながら身をひいた。
十九
庸三がもしも物を書く人間でなかったら――言い換えれば常住人間を探究し、世の中の出来事に興味以上の関心を持つことが常習になっていない、普通そこいらの常道的な生活を大事にしている人間だったら、葉子に若い相手ができた後までも、こうも執拗《しつよう》に彼らの成行きを探ろうとはしなかったであろうが、彼はこの事件もちょうどここいらで予期どおりの大詰が来たのだし、自身の生活に立ち還《かえ》るのに恰好《かっこう》の時機だと知って、心持の整理は八分どおりついていながら、まだ何か葉子の匂いが体から抜けきらないような、仄《ほの》かな愛執もあって、それからそれへと新らしい恋愛を求めて行く彼女を追跡したいような好奇心に駆られていた。ある時は彼もぴったり心に錠を卸してしまい、あの憂鬱《ゆううつ》な日常から解放された気易《きやす》さで、庭へ出て花畑の手入れをしたり、蔓《はびこ》る雑草を刈り取ったり、読みさしの本を読んだりするのだったが、そうしているとまたつい独身ものの気弱さというようなものにも、襲われがちで、まだ記憶の新しい亡き妻の思い出を超《こ》えて、ずっとその奥の方にぼやけている亡き愛嬢の面影や、死の前後のことが不意に彼を感傷の涙に誘うのであった。夜なかに目がさめてその娘のことが浮かんで来ると、いつでも胸が圧《お》されるようになって、病的な涙が限りなくにじみ出て枕《まくら》にまで伝わりおちるのであった。そしてその次ぎには、死ぬまで――いつもうっちゃりぱなしにしておいた母に詫《わ》びたいような弱さに引き入れられた。妻はといえば、十分愛したつもりの庸三には悔いるところもなかった。
庸三は昼間も床を延べさせて、うつらうつらとしているようなことも多かったが、葉子が庸三を裏切ったと言って憤慨している権藤青年の誘いもあって、今一度葉子に会う機会を作りはしたが、上野の鳥料理で金を渡して別れてしまってからは、急に遠い人になってしまった感じで、憑《つ》きものが落ちたような空虚な自身を見出《みいだ》すのであった。彼は葉子たちの結婚が順調に行くことを祈る気持になるかと思うと、彼女が普通|真面目《まじめ》な家庭に納まりきれない性格の持主だというところから、持前の浮気な熱情でせっかく飛びついて行っても、じきにまた破綻《はたん》が来るであろうことを、ひそかに希《ねが》ったりしていたのも真実で、今後もし逢《あ》う機会があっても、もう今までのような気持では逢ってもいられないだろうし、反動的な嫌悪《けんお》の情が彼の総身に寒気《さむけ》を立てさすであろうとは思ったが、それと同時に、何か腹癒《はらい》せに彼女をさんざん弄《もてあそ》んでやりたいような悪魔的な野心も芽生《めば》えないわけに行かなかった。
すると金をハンド・バッグに仕舞って、あれほど悦《よろこ》んで飛んで帰って行った葉子が、間三日もおかないうちに、近所の例の安栄旅館から電話をかけて来た。
まだ宵《よい》のことで、彼は殺風景な応接室で、子供と一緒にお茶を呑《の》みながらレコオドを聴《き》いていたが、そうした家庭人になってみると、母のない子供の日常にも、何かはかない感じがまざまざ感じられて来て、楽しい気持にもなれないのであった。
庸三は自分への電話だときいて、門を出ていつも取り次いでくれている下宿屋の電話室へ入って行った。多分小夜子が花でも引こうというのだろうと思って、受話機を取ってみると思いがけなくそれが葉子の声なのに驚いた。
「ああ、先生。私よ。」
「どうしたんだ。どこにいるんだい。」
「安栄旅館よ。先生にお話ししたいことがあって、今出て来たばかりよ。御飯食べながら聴いていただこうと思って。」
「何だろう。」
「来てよ。すぐよ。」
庸三は懲りずまに、また葉子に逢いに行った。
葉子は前二階の部屋にいた。スウト・ケイスやハンドバッグが床の間にあって、旅行からでも帰って来たようなふうで、髪も化粧も崩れていた。
「どうもすみません、お呼び立てして……。」
彼女は金屏風《きんびょうぶ》のところにあった座蒲団《ざぶとん》をすすめたりした。
「スウト・ケイスどうしたの。旅行?」
「そのつもりでしたのよ。私たちを保護してくれることになっている、園田の従兄《いとこ》の黒須さんね。あの人がどうも不安なのよ。」
「どう不安なのさ。」
「あの人が私に色気をもつからいけないのよ。」
なるほど! と庸三は思った。
「それにあの人こわいのよ。もと外務畑の人だそうだけれど、今は院外団か何かでしょうか、乾分《こぶん》も多勢《おおぜい》あるらしいの。別に悪い人でも乱暴な男でもなさそうだけれど、ちょっと気のおけないところがあるのよ。男前も立派だし、年も若いわ。奥さんもインテリでいい人なんだけれど、どうもあの人、私に対する態度が変なのよ。この間も縁側で園田の膚垢《ふけ》を取ってやっていると、あの人が傍《そば》へ来て、冷やかし半分|厭味《いやみ》を言ったりするの。」
「そんなこと気にすることないじゃないか。」
「それあそうだけれど……。」
葉子は少し顔を紅《あか》らめて、
「だけどあの人
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