来たというので、子供の同窓に対する父の礼儀として、サルンの方へ出て見た。庸太郎はちょうど風呂《ふろ》に入っていた。葉子は紹介者の庸太郎も乗り超《こ》えて、すでにその青年と心持の接触を感じていたらしい折なので、風呂へ入っている庸太郎の方へも何か愛嬌《あいきょう》を振りまいていた。
「お風呂のお加減いかが。」
 などと湯殿の方へ声かけたりしていた。
 含羞《はにか》んだふうで硬《かた》くなっている青年園田を見たとき、その俊秀な風貌と、すくすくした新樹のような若さに打たれながら、庸三の六感に何か仄《ほの》かな予感の影の差して来るのを感じはしたが、それはむしろ客観的な美しい幻影のようなもので、もし卑しい嫉妬《しっと》という感情がいくらかあったとしても、それは理性の力で十分抑制しうる程度のものであった。この年下の純白な若ものを※[#「※」は「さんずい+賣」、第3水準1−87−29、255−下−11]《けが》すようなことは、さすがに葉子も差し控えなければならないことだし、何も事件の起こる気遣《きづか》いはなさそうにも思えたが、この海岸へ来る時、すでにこの青年の存在が、彼女の頭脳《あたま》に何らかの形で意識されていたに違いないのだし、撞球場での初めての印象を想像してみても運命のプログラムには、疾《と》くに何らかの発作的な事件が用意されてあるようにも思えた。
 しかしそれはそれとして、彼は今そのことをすっかり忘れたように、憂鬱で険悪な逗子の家からもしばらく離れていた。
「家へいらっしゃいよ。お花でもして遊びましょうよ。」
 小夜子は言っていたが、そこへ門の開く音がして、昨日また逗子へ遊びに出かけて行った庸太郎がひょっこり帰って来た。彼は自分のことのように少し悄《しょ》げた顔をしていた。
「どうしたんだい。」
 庸三は不安そうに訊《き》いた。
「ちょっとお父さんの耳に入れておかなきゃならないことが起こったので……。」
「逗子で?」
「ええ。」
 庸太郎の話では、今日も園田と葉子と彼と三人で遊んだのだったが、園田に仕かける葉子の悪戯《いたずら》が、すでに二人の接触が危険に陥っていることを語るに十分だというのであった。葉子はいつもの口笛を吹きながら、青年と手をつないで歩いたり、ステッキの柄を彼の衿《えり》に引っかけて後ろから引っ張ってみたりなどなど。
「僕は二人に送られて、汽車に乗り込んだんですがね。」
「ふむ、やっぱりね。」
 庸三は来るべきものが来たのだと思った。
「じゃあ……今何時だい。汽車はまだあるね。」
「あります。」
「今夜のうちに話をつけてしまおう。これから行こう。」
 庸三は性急《せっかち》に言い出した。

 最近よく往復することになった横須賀《よこすか》行きのこの列車は、葉子と同伴の時も一人の時も、庸三にとって決して楽しいものではなかったが、今夜も彼はどこかせいせいしたような気分の底に、一脈の寂しさを包みきれないで、帯同した庸太郎と一人の青年と並んで暗黙《だんまり》でクッションに腰かけていた。乗客はいくらもなかった。
 夜更《よふけ》の逗子の町は閑寂《ひっそり》していた。彼は、この挙動が何か心の余裕をもっているように見えて、その実|仮借《かしゃく》のないあさましいものだことに十分気がついていたが、思いのほか町の更けているのを見ると、一層それがはっきりするようで、内心来たことを悔いる心にもなっていた。むしろホテルで一泊して、明日のことにでもしようかと思ったのだったが、一旦行動に移された彼の荒い感情を抑制することは困難であった。
「お前はホテルで一部屋取って待っておいで。」
 庸三は少し手前で自動車をおりてから、門の前まで来ると、庸太郎と青年|権藤《ごんどう》に言った。門にさわってみると、戸はもう鎖《とざ》されていた。庸三は近所を憚《はばか》るように二三度|叩《たた》いてみたが返辞がないので少し苛々《いらいら》して来た。彼はいきなり戸の梁《はり》に手をかけると、器械体操で習練した身軽さで跳《と》びあがり、一跨《ひとまた》ぎに跨いで用心ぶかく内側へおりて行った。そんな早業《はやわざ》ができようとは今の今まで想像もしなかったし、しようとも思っていなかった。
「おい、おい。」
 庸三は暗い茶の間の窓の下から、袖垣《そでがき》で仕切られた庭の方へまわって、縁側の板戸ぎわに身を寄せて、そっと声をかけたが、やがて、葉子の声がして板戸が一枚繰りあけられた。そこから庸三は座敷へあがった。
「こんな遅くにやって来て失敬。」
 庸三はどかりと坐って、部屋を見まわしたが、別にかわったこともなかった。園田が今までそこらにいたらしい形迹《けいせき》もなかった。湯殿と物置きと台所口へ通じる廊下があるとしても、そこまで考える必要はなかった。
 葉子はどこか面窶《おもやつ》れがしていたが、裏が廊下になっている、ちょうど縁側と反対の壁ぎわに延べられた寝床の枕元《まくらもと》近くのところで、庸三を警戒するもののように離れて坐っていた。
「どうしたんだ。」
「いずれある時機に御相談しようとは思っていたことなんですけれど。」
「それで……。」
「先生にいつかお話ししましたかしら、メイ・ハルミのこと。」
「いや聞かない。」
「そうお。じゃあこれはごく内証《ないしょ》よ。お書きになったり何かしちゃ駄目よ。あの人たちの名誉に係《かか》ることですから。」
「話してごらん、大丈夫だから。」
「ハルミさん一昨年の夏とかに、避暑かたがた軽井沢へ美容院の出張店を出していたのよ。そこへおばさんおばさんと言っちゃ、懐《なつ》いて来る一人の慶応ボオイがあったんですって。するとあの人も、商売がああいうふうに発展すれば発展したで、無論やり手の旦那《だんな》さまのリイドの仕方も巧いんでしょうけれど、それだけにまた内部に苦しいこともあるものらしいので、ついその青年に殉ずる気持になって、結婚しようと思ったんですって、それでそのことを旦那さまに打ち明けて、今までの夫婦生活を清算してから、一緒になろうとしたものなの。」
 そんな話になると、彼女には彼女特有の表現の魅力もあって、切迫した庸三の今夜の気持にも、何かしら甘い寛《くつろ》ぎを与え、かつて彼女の口を通して聴《き》いた外国の恋愛小説ほどの興味は望めなかったが、現実の問題にも何か関《かかわ》りがありそうなので、聴くのに退屈はしなかった。
 葉子の話では、その青年との結婚を、ハルミのマスタアも一応は承諾したのだったが、そのことはハルミの生涯にとっても重要な分岐点だから、慎重に考慮する必要もあるし、よしそれが決定的なことだとしても、マスタアの立場として、一応|田舎《いなか》のハルミの叔父《おじ》の諒解《りょうかい》をも得なければならないことだというので、その青年を加えて、間もなく三人でハルミの郷里を訪れ、ハルミの叔父や姉婿《あねむこ》などにも立ち会ってもらって、マスタアとの結婚解消と青年との結婚とについて、協議を遂げることになったが、誰もこの新らしい恋愛結婚に賛成するものはなかった。その時マスタアは厳粛な態度で青年に詰問してみた。君たちが本当の熱情から愛し合っているのが事実なら、ハルミは今でも譲っていいが、責任をもってハルミを引き受けるだけの自信が、果して君にあるかどうか、この場で十分我々を納得させるだけの返辞を聴かしてくれたまえ――。とそう言われると青年はにわかに怯《ひる》んで、すみませんと言ったきり、首を俛《た》れてしまった。そしてその瞬間、男性的なマスタアへのハルミの信頼が強められた。
「何の話かと思ったらそんなことか。」
 庸三は擽《くすぐ》ったい感じだった。
「夜があけたらあの人をここへ呼びますから、先生から聴いていただきたいと思うんですけれど……。」
「そんな芝居じみたことは僕にはできない。」
 庸三は答えた。それが苦し紛れの葉子の口実なのか、それとも相手の態度がはっきりしないので、今夜来たのを幸いに、庸三に立ち会ってもらいたいのが本心か、そのいずれだかは彼にも解《わか》らなかった。いずれにしても、青年の家柄、父親の社会的地位などから考えて、とかく誠意を欠いた葉子との結婚が、すらすら運ぶものとは思えなかったし、運んだところで長続きがするか否かも疑問であった。葉子も自身の弱点は相当計算に入れているはずでもあった。
「いけません?」
「僕はそんな厭味《いやみ》なことは嫌《きら》いだ。」
 年齢はとにかく、園田の人格に対しても、そうしたお干渉《せっかい》は無駄だと思った。
 するうちに時計が二時をうった。庸三は頭の心《しん》が疲れて来た。目の始終|潤《うる》みがちな葉子も疲れて来た。
「もう遅いから少しお寝《やす》みになって……。」
 庸三は肱《ひじ》を枕《まくら》にして横になったが、葉子も蒲団《ふとん》のうえに寝そべった。
「あの人体が大きいのよ。そのくせ※[#「※」は「八」のしたに「儿」+「王」、第4水準2−8−14、258−下−3]弱《ひよわ》いらしいの。胸の病気もあるようなのよ。氷で冷やしたり何かしていたのよ。」
 葉子は哀《かな》しげに言った。
 ぼそぼそ話しているうちに、いつか障子が白んで来た。
「もう一時間もしたら、あの人のところへ使いをやりますから、一度|逢《あ》って下さらない。お願いしますわ。」
「あの男から何か話させようとでも言うのか。」
 庸三はそうも思ったが、やがて葉子は車の丁場《ちょうば》で、園田のところへ使いを頼むつもりで、出て行ったあとで、庸三はあらゆる理由を抜きにしても、この場合葉子の恋愛の相手としての子供の友達に顔を合わせたくなかったので、そっとそこをぬけてホテルへ引き揚げた。そして庸太郎たちを促して、朝の食事も取らずにそこを立ってしまった。

 庸三はにわかに火が消えたような寂しさを感じた。書斎に独りいる時もそうだったが、小夜子の家で遊んでいる時にも、何か気持の空隙《くうげき》を感じないわけには行かなかった。小夜子同伴で銀座へ出たり、足休みにバアやカフエへ入ったりして、動けば動くほど心の落着きが失われるのだった。心の動揺を抑制する手近な方法は、下凡な彼としては、まずふらつきやすい体を抑制することにあることを、彼はだんだん学んで来たので、厳《きび》しい宗教的な戒律というほどでなくとも、日常生活を何かそういった形式に篏《は》めこめるものなら、そうしたいという気持もありながら、ちょうど少し勤労以外の所得があったところから、二十五年封じこめられていた、貧困な結婚生活の償いをでも取ろうとするかのように、気持は吝々《けちけち》しながら計算はルウズになりがちであった。ぽっと出の女中の手に成った、どうにも我慢のならない晩飯も一つの原因であったが、時のジャアナリズムから見棄《みす》てられた侘《わび》しさも、とかく彼を書斎に落ち着かせようとはしなかった。しかしそうした不安な日常のあいだにも、逗子で起こったこのごろの事件から、うみただれた肉体にメスが当てられ、重苦しい苦悩の下から、燃えのこりの生命が燻《くすぶ》り出したような感じで、今まで余所事《よそごと》のように読みすごして来た外国の作品などに、新らしい興味を覚え、もしも余生がこの先き十年もあるものなら、出直してみたいという欲望も、頭を持ちあげて来た。
 それに庸三は、最近裏の平屋を取り払って、その迹《あと》へ花畑や野菜畑を作ったり、泉水に水蓮《すいれん》や錦魚《きんぎょ》を入れて、藤棚《ふじだな》を架《か》けたりした。碧梧《あおぎり》の陰に、末の娘のために組み立てのぶらんこをも置いた。しかしそうして、女中に手伝わせて、ホースで水を撒《ま》いたり、鍬《くわ》やシャベルを持ち出して、萩《はぎ》や芙蓉《ふよう》の植え替えをしたり、薔薇《ばら》やダリヤの手入れをしていると、老いた孤独の姿がますます侘しく心に反映して来て、縁側へ来て休んでいても、お茶一つくれるものもないのが物足りなかった。
 逗子における葉子の事件は、庸三の近くにいる二三の青年を嫉妬《しっと》半分|憤《おこ》らせ
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