でお茶を呑《の》んでいる二人を振り返った。
庸三は手をふって見せた。
小夜子とお玉さんの間に、仲間の独逸人の消息とか男女の関係とか、世間の噂話《うわさばなし》が交されていたが、するうち三人で銀座へ出ることになった。
銀座でお玉さんは、行きつけの化粧品屋へ入って、ルウジュやクリイムなんかを取り出させて、あれこれと詮議《せんぎ》していたが、結局何も買わずに出てしまうと、今度は帽子屋の店へもちょっと入ってみた。何といってもつつましやかな暮しぶりらしく、物質を少しも無駄にしないというふうであった。長く銀座をぶらつくということもなく、主人の帰る時刻になると、じきに電車で帰って行った。
そんな女たちを見ていると、庸三はいつもかえって葉子を想《おも》い出すだけだったが、ある日も書斎で独りぽつねんとしていると、小夜子がまた一人の別の女をつれて来た。いかにも押し出しのいい芳子《よしこ》というその女は、小夜子よりも少し若く、中高の美人型の顔で、黒い紋つきの羽織を着て、髪を水々した丸髷《まるまげ》にしていた。
「こちら先生のご近所よ。それにお国も同じだわね。」
小夜子はそう言って紹介した。
「はは。」
庸三は笑っていたが、後にはだんだんそのロマンチックな身のうえや、竹を割ったようにさっぱりした気性も呑みこめて来た。新橋にいたころの同じ家《うち》の抱えだということ、ある有名な経済学の教授の屋敷の小間使をしているうちに、若さんと恋愛に陥り、その青年が地方の高等学校へ行くことになってから、そこを出て新橋で芸者になったこと、青年がやっとのこと捜しあてて来て、さらに新らしい魅力に惹《ひ》かされ、学校を出て結婚してからも、ひそやかな蔭《かげ》の愛人として、関係の続いていることなど、古い通俗小説めいた過去も解《わか》るようになった。それに瀟洒《しょうしゃ》な洗い髪の束髪などで、セッタ種の犬を片手に抱きながら、浴衣《ゆかた》がけで通りを歩いているのにも、時々出逢ったりして、この界隈《かいわい》では相当評判の美形だことも知るようになったし、花や麻雀《マージャン》が道楽で、そうした遊びにかけては優《すぐ》れた頭脳の持主であると同時に、やり口がいつも鮮やかすぎて、綺麗《きれい》な負け方ばかりしているのにも感心させられた。小夜子とちがってどの道彼女は生活者ではなかった。
「一戦どう。」
小夜子は悪戯《いたずら》そうな目をして、鼻頭へ人差し指をもって行った。
「そうね。また鴨《かも》にしようというんだろうが、おれも家内のいるうちは、どじばかり踏んで叱《しか》られたもんだが、このごろ少し性格に変化が来たようなんで。」
「元はもっと下手だったわけね。」
小夜子は笑った。
その晩庸三は、小夜子の家で遅くまで花を遊んだが、遊びに来ていたジャアナリストや漫画家も一緒だった。
ある晩庸三と葉子はデネションの舞踊を見に行って、そこで同窓の仲間と一緒に来ている庸太郎にも出逢《であ》った。そのころ庸三はしばらく家をあけていた。あれきりにもなり得ないで、彼は何かのきっかけから、人目の少ない銀座のモナミの食堂で、葉子と晩飯を食ったり、新らしく出来あがった武蔵野《むさしの》映画館へそっと入ったりしているうちに、また逗子へも行くことになった。
そのころ大戦後の疲弊から、西欧の一流芸術家が、まだしも経済状況の比較的良かった日本を見舞って、ちょうどレコオド音楽の普及しつつあった青年のあいだに、不思議な喝采《かっさい》を博していた。庸三も、ずっと前から軍楽隊の野外演奏の管弦楽《かんげんがく》や、イタリイのオペラなど聴《き》いたり見たりしていたが、レコオドの趣味もようやく濁《だ》みた日本の音曲が、美しい西洋音楽と入れかわりかけようとしていた。エルマンを聴いて、今まで甘酸《あまず》っぱいような厭味《いやみ》を感じていた提琴の音のよさがわかり、ジムバリスト、ハイフェツなどのおのおのの弾《ひ》き方の相違が感づけるくらいの、それが古い東洋式の鑑賞癖でしかなかったにしても、この年になって、やっと汗みずくで取り組みつつある恋愛学から見れば、まだしも地についていると言ってもよかった。家庭での庸三夫婦と子供との新しい旧《ふる》い趣味のひところの衝突も、もうなくなっていた。上野の音楽学校で演奏された、ベエトヴェンの第九シムフォニイを聴きに行った庸太郎を、ちょうど何かの用事の都合で、夫婦で広小路まで出かけて行ったついでに、動物園の附近で、待ちあわせていたことがあったが、ちょうど演奏の了《お》わる時刻だったので、やがて制服姿の彼が肩をすぼめながら、おそろしい厳粛な表情で、傍目《わきめ》もふらずとっとと二人の前を行きすぎようとしたことがあったが、それももう古い過去となってしまった。
このデネションの前に、それは去年のことだったが、同じアメリカの舞踊団がやって来て、その時も庸三は庸太郎に前売切符を買わせて、座席を三人並べて観《み》たものだったが、新調のシャルムウズの羽織などを着込んだ葉子が一番奥の座席で、隣りが庸太郎、それから庸三という順序で、オーケストラ・ボックス間近に陣取っていた。開演にはまだ時間が早く、下も二階も座席が所々|疎《まば》らに塞《ふさ》がっているきりであった。黄昏《たそがれ》に似た薄暗さの底に、三人はしばらくプログラムを見ていたが、葉子は中に庸太郎という隔てのあるのを牴牾《もどか》しがるようなふうもしていた。
「出よう。」
庸三が煙草《たばこ》をふかしに廊下へ出ると、二人も続いて出た。震災のとき、やっと火を消しとめたこの洋風の劇場は、そのころようやく新装が仕揚がったばかりで、前の古典的な装飾が、ぐっと瀟洒《しょうしゃ》なものになっていた。三人は婦人休憩室へ入って、赤い縞《しま》の壁紙などを見まわしていたが、ふと庸太郎が父に声かけた。
「二階のホール御覧になりましたか。」
「さあ、どうだったかしら。」
「それあ綺麗《きれい》ですよ。ここではあすこの趣味が一番いい。」
「そう、見たい。」
葉子は甘えるように言った。
「行ってみませんか。」
すると葉子も行きかけて、
「先生は? いらっしゃらない。」
「いいや、見てくるといい。」
庸三は少し尖《とが》っていたが、やはりじっとしていられない質《たち》で、二人の影が階上へ消えてから、廊下をぶらぶら歩きはじめた。入口のホールへ出てみると、美々しいドレスの外人も二組三組そこここに立話をしていたが、まだそんなに込んでもいなかった。「私をもっていることに十分誇りをもっていて下さい」とでも言いそうな葉子と二人きりで、晴れがましい劇場の廊下など押し歩くのが気恥ずかしく、大抵の場合子供を加担させて擬勢するのが彼の手だったが、子供に委《ま》かしきりにしておくのも何か不安であった。わざと危険に曝《さら》しながら、心は穏やかではなかった。
ちょうど知った顔もそこに見えて、彼は円形のクションに並んでかけながら、しばらく世間話をしていた。
「君は実に羨《うらや》ましいよ、若い綺麗な恋人なんかもって。」
いつも剽軽《ひょうきん》そうなその友達にそう言われて、庸三は寂しそうにうつむいた。
それからまた一人二人の仲間にも逢って、挨拶《あいさつ》しているうちに、ふと目をあげると、そこに階段をおりて来る庸太郎と葉子の姿に気がついた。二人はぴったり肩を押しつけるようにして、爪先《つまさき》をそろえ、いくらかあらたまったような表情で、何か話しながらそろりそろりと降りて来た。庸三は見ては悪いものを見たような気持で、にわかに目をそらしたが、二人は多分気がつかずに、傍目もふらず彼のすぐ目の前をゆっくりゆっくり通って行った。
大分たってから席へ復《かえ》ると、二人はもうそこにいて、
「どこへ行っていらして?」
と葉子はきいた。
「私たち先生を捜していたのよ。ここへ還《かえ》ってみると、いらっしゃらないもんだから、方々捜しまわりましたわよ。」
「まあいい。」
「よかないわ。貴方《あなた》に不機嫌《ふきげん》になられて、ダンスを見る気分も壊れてしまったわ。だからお誘いしたら素直に来て下さるものよ。」
葉子は目を潤《うる》ませたものだったが、その時分から見ると、退院後に起こった事件をも通りこして、二人の神経も大分荒くなっていた。今度は脚の運動のよく見える階上に席を取っていたが、幕間《まくあい》に庸三は、ふと下の廊下で傷心な報告を子供から受け取った。
「ちょっとお父さんにお話ししたいことがあるんで……いや、別にそう心配なことじゃないんですけれど。」
庸太郎がそう言って、彼を円形のクションに誘うので、そうでなくてさえ留守のことが始終気にかかっていた庸三は、ちょいと神経が怯《おび》えた。
「話さない方がいいかとも思ったんですけど、ちょっとお父さんの耳へだけ入れておかないと……」
庸三はちょっと見当がつかなかった。いつも学校でみんなから変な目で見られて憂鬱《ゆううつ》になっている長女の身のうえか、それとも稚《おさな》い次女に何か起こったのかと、瞬間目先きが晦《くら》んだようだった。
「実は庄治《しょうじ》が金を卸して、少し無茶をやったんですがね。」
庄治は庸三の二男であった。
「いくらくらい?」
「五百円おろして、うち三百円を一晩に使っちゃったんですがね。」
「どこで使ったんだ。」
「吉原《よしわら》です。それも日本堤の交番から知らせがあったので、実は昨日小夜子さんと一緒に身元を証明して引き取って来たんですけれど、使い方が乱暴なので怪しいと睨《にら》まれたらしいんです。」
到頭そこまで来たかと、庸三もちょっと参った。彼から通帳を預かっていた庸太郎を責める気にもなれなかった。
ベルが鳴り響いたので、父子は上と下とに別れた。
その晩葉子を例の近所の旅館に残して、庸三は家へ帰ってみたが、庸太郎が用箪笥《ようだんす》の引出しに仕舞っておいたという残りの二百円を見に行ってみると、それももう無かった。金の代りに赤インキで何やら書きつけた紙片《かみきれ》が空《から》の封筒のなかに入っていた。
「いや、またやられた。」
庸太郎は笑いながら紙片をもって来て庸三にも見せた。この金一時拝借します――赤い文字でそう書いてあった。
ついこのごろ、上の学校の入学試験を受けるはずの庄治が、ちょうど葉子も傍《そば》にいる時、庸三の前へやって来て、今の時代にこの上の学問の無駄なことと、学校に何の興味もないこととを訴えて、庸三がいくら繰りかえし言い聴《き》かしてみても、主張を曲げようとしなかったその時の蒼白《あおじろ》い顔が、ふと庸三の目に浮かんで来た。
十八
ある宵《よい》も小夜子が遊びに来ていた。庸三の末の娘をつれて二人で浅草へ天勝《てんかつ》の魔術を見せに行った帰りに、上野で食事をしてからちょっと立ち寄ったのだったが、庸三は一般ジャアナリストの外からの排撃と、葉子の事件に関して長男の態度にも反感をもっていた二男の、家庭の内部からの火の手のあがり初めて来た叛逆《はんぎゃく》との十字砲火を浴びながら、彼の社会的信用に大抵|見透《みとお》しをつけながらも、新らしい方嚮《ほうこう》を見出《みいだ》しかねている葉子からも離れかねていた。
ちょうどそのころ、彼はその海岸に住んでいるという、長男の同窓であるマルクス・ボオイの風貌《ふうぼう》をも、葉子のサルンでちょっと見る機会があった。宵のことであった。が、ホテルの撞球場《どうきゅうじょう》で遊んでいるその青年を、葉子は庸三と一緒に来ている長男の庸太郎に初めて紹介されて、その場ですぐ友達になってしまった。そしてホテルを出てから、家《うち》へ引っ張って来たのであった。鼻の隆《たか》い、色白の、上脊《うわぜい》のあるその青年は、例の電球二つを女の乳房《ちぶさ》のようにつけた仏蘭西製《フランスせい》のスタンドの、憂鬱な色をしたシェドの蔭《かげ》に、俛《うつむ》き加減に腰かけていたものだったが、奥の座敷にいた庸三は、葉子がその青年をつれて
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