う気もして、葉子と一緒に家を捜してみることもあった。
葉子はその日|家《うち》を出がけに、晩方にはきっと帰って一緒に御飯を食べるからと言いおいたので、庸三もそのつもりで待っていたが、すでに日が暮れそうになっても彼女は帰って来なかった。ちょうど女中のほかに、洋画修行の北山という北海道時代から葉子の原稿の手助けをしたり、東京ではまた踊りの師匠の内弟子である瑠美子の様子を、時々見に行ったりしている女も来ていたので、庸三も退屈はしなかったが、家に葉子がいないと、やはり花が凋《しぼ》んだような感じで、電燈の影さえ寂しかった。それに時間がたつに従ってだんだん餒《ひも》じくもなって来た。
やがて八時も過ぎ九時にもなった。
狭いこの町に、ホテルへ客を送って来る自動車の警笛の音が幾度か響いて、夜も大分|更《ふ》けた時分に、門の前で自動車のエンジンの音がしたと思うと、メイ・ウシヤマで綺麗《きれい》にウエイブをかけた黒髪をてらてらさせて、濃いめな白粉《おしろい》やアイシェドウに、眉《まゆ》や目や唇《くちびる》をくっきりさせながら、何か型にはまったような美しさで葉子が帰って来た。銀で千鳥をところどころ縫い取った黒い地紋の羽織を着ていたので、顔の感じが一層|石膏《せっこう》細工のように硬《かた》かった。
「もう帰るだろう、もう帰るだろうと思って、僕は今まで飯も喰《く》わずに待っていたんだ。」
庸三は、腹を立てていた。
葉子は台所の方を背中にして坐っていたが、化粧のせいかいつものように、溶けるような目の表情もないかわりに暗い影もなかった。
「だって、あの人たちが久しぶりだから御飯をおごると言ってくれるし、編輯《へんしゅう》の人たちに逢《あ》えば女はそう事務的にばかりも行かないものなのよ。」
庸三はその雰囲気《ふんいき》を想《おも》いやりながらも、それもそうかと思ったが、今度は髪や顔をくさしはじめた。葉子は半ば惘《あき》れた顔をしていたが、北山やお八重が羨望《せんぼう》の目で、どこに陰影一つない粧《つく》り立ての葉子の顔を見ていたので、庸三はなおさら虫が納まらなかった。そして到頭彼は座を蹴《け》るようにして立ちあがった。そして羽織を着ると折鞄《おりかばん》とステッキをもって外へ出た。彼はどこかでいくらか手のかかった晩飯も食べたいと思った。
葉子は北山を従えて後から尾《つ》いて来た。
「私おもちします。」
北山はそう言って、彼の手から折鞄を取ろうとしたが、庸三はステッキを振り振り、暗い路《みち》を急ぎ足で歩いて行った。温かい雨がぽつりぽつり顔を打ちはじめた。そして日陰の茶屋まで来てみると彼もひどく息がはずんでいた。
二階の部屋に納まったころ、入口で葉子たちと女中との話し声がしていたが、下の風呂場《ふろば》へおりて行った時分には何の気配もしなかった。
滋《しげ》くなって来た雨の音を聴《き》きながら、心の穏やかでなかった庸三は、うとうと微睡《まどろ》んだと思うと目がさめたりして、そこに侘《わび》しい一夜を過ごした。
十七
翌朝床を離れた庸三は、僅かの時間しか熟睡できなかったので、まだ目が渋く頭がもやもやしていた。夜来の雨に潤った新緑の鮮やかな庭木が、きらきら光って、底ふかい空の青さにも翳《かざ》しがなかったが、心臓の弱い庸三はいつもこういう場合の癖で、ひどく濁りっぽい気持になっていた。
葉子の入院の前後、隣りの下宿の部屋にいたり、庸三の書斎へ来ていたりしたころには、喧嘩《けんか》をするたびに、葉子が部屋を飛び出して行くことになっていたが、今庸三は自分で追ん出た形で、何か恰好《かっこう》のつかない感じだった。潔くここを引き揚げたい気持もしながら、やっぱり思い切りが悪く、後ろ髪を引かれるのであった。一度かかった係蹄《わな》から脱けるのは、彼にとってはとても困難であった。彼は自身の子供じみた僻《ひが》みっぽい魂情《こんじょう》を、いくらか悔いてもいたが、とかく苦悩と煩いの多いこの生活を、一気に叩《たた》きつけるのも、彼女に新らしい恋愛もまだ初まっていない、こんな時だという気もしていた。しかしそういう時はまたそういう時で、とかく切り棄《す》てにくいのであった。嫉妬《しっと》は第三者が現われたときに限るのではなかった。葉子のような天性の嬌態《きょうたい》をもった女の周囲には、無数の無形の恋愛幻影が想像されもするが――それよりも彼女自身のうちに、恋愛の卵巣が無数に蔓《はびこ》っているのであった。
不用意にも、ちょうど彼は財布が少し心細かった。葉子のところへ行けば何でもないことだったし、宿へ断わって出ればそれでもよいわけだったが、世間の非難と嘲笑《ちょうしょう》を一身に集めたような葉子との関係にも、肩身の狭い思いがしているので、少しばかりのことで気まずい思いをするのもいやだった。些細《ささい》なそんな拘泥《こうでい》も手伝って、彼は朝飯もろくろく喉《のど》へ通らなかった。しかも勘定を取ってみると、それを払ってチップをやっても汽車賃には事欠かないほどだった。彼は葉子のところへ行く口実もなくなったのに少し力を落としながら、やがて自動車を呼んでもらった。
表に爆音が聞こえて来た。庸三は葉子に黙って帰るのも悪いような気もしながら、彼女の家のある狭い通りを左に見て、今ごろは彼女たち三人と子供とで何をしているかと想《おも》ってみたりして、流れに沿った道を通って行った。
汽車に乗ってみると、彼の気持もようやく落ち着いて来た。いつものように傍《そば》に葉子のいないのを物足りなく感じながらも、憂鬱《ゆううつ》な囹圄《ひとや》から遠のいて来た心安さもあった。
家へ帰って書斎へ入ると、彼は半病人のような体の疲れと衰えを感じて、何はともあれ床をのべさせて横たわると同時に、女中に命じて日頃かかりつけの渡瀬《わたせ》ドクトルにいつものように来てもらった。
やがてドクトルは糊《のり》に硬張《こわば》った診察着でやって来て、ベッドの傍に膝《ひざ》をついて聴診器をつかいはじめた。
「私も女関係で苦しむものですから……。」
庸三がきまりわるそうに呟《つぶや》くと、ドクトルも苦笑して、
「なに、結構ですよ。」
「少し熱っぽい感じですが。」
庸三は前から気管が悪いので、五六年海岸で暮らすようにと、前からドクトルに言われていたものだが、ドクトルも胸部を叮嚀《ていねい》に診《み》ていた。
「やっぱり神経衰弱ですね。薬をあげますから、よく眠るんですな。」
紅茶を呑《の》みながら少し話して、ドクトルが帰ってから、庸三はうとうと眠りに誘われた。悪夢にうなされているような日常は、ふつふついやだと思いながら、いつかまた彼女の夢を見ていたことに気がついた。
翌日になると、寝飽きた彼はもう床についてもいられなかった。彼は心の落着きを求めようと思って、乱雑に床の間に積み重なっている書物を引っくらかえしてストリンドベルグの小説を抜き出して来て開いてみた。彼は何か文学的な渇きをおぼえていたが、創作力の貧困にも気づいていたので、独りで書斎にいると、自分を支えきれないように寂しさに打たれた。世間ではモダアンな新興芸術が、花やかな行進曲を奏している一方、マルキシズムの研究が流行しはじめ、プロレタリアの文学が到《いた》るところに気勢を挙げていて、何かあわただしい潮が渦《うず》をまいていた。
しばらく庸三は小夜子と、小夜子の仲好しの友達なぞと遊ぶ幾日かの昼や夜をもつことができた。
小夜子の仲間にも、いろいろの女がいた。家政婦に頼んだらどうかと言って、いつか小夜子が写真を見せてくれた女もその一人であった。小夜子と並んで歩いていると、むしろこの方が立派に見えることさえあったが、近よって話を交えてみると、げっそりするようなところもあった。笑うと出っ歯の齦《はぐき》の露出するのも気になったが、お品が悪くはないながらに口の利き方や気分に、どこか肥料《こやし》くさいようなところがあった。何かぎすついた粗硬な感じで、小夜子の言うように、田舎《いなか》では立派な財産家の奥さまであったらしい、品格もないことはなかったが、話題はいつも低級であった。庸三は時に小夜子の帳場で、お行儀よく坐っている彼女を見かけるのだったが、渋い作りの身装《みなり》もきちんとしていたが、ごつい金歯がひどく顔の感じを悪くしていた。
庸三は妻のある間は、どんな美しい女にも目が留まらなかったし、何か仄《ほの》かに引っかかるもののある感じのする売色《くろうと》にも、その場きりの軽い興味をもち得る機会が、長いあいだにはたまにあったとしても、女を愛する資格があるとは思っていなかったので、自然恋愛を頭から否定してかかっていたのだったが、今葉子との恋愛が破綻《はたん》百出の状態におかれてみると、何か意地の汚い目がとかく世間の女性へと注がれがちであった。
彼は小夜子につれられて、おけいさんというこの女の人の家《うち》へも一度遊びに行ってみた。おけいさんは三田《みた》の方の、ある静かなところに門のある家を借りていた。十六七の姪《めい》が一人|田舎《いなか》から出て来ていて、二階には三田の学生が二人ばかり下宿していた。古風な中庭には泉水などがあって、躑躅《つつじ》が這《は》いひろがり、楓《かえで》の若葉がこんもりした陰影を作っていた。四畳半の床の間には、白い平鉢《ひらばち》に、こってりした生花がしてあって、軸や雲板《うんばん》もそうひどいものではなかった。おけいさんにはお茶の心得もあるらしかった。物綺麗《ものぎれい》でこぢんまりしたところは、妾宅《しょうたく》のような感じもするのだった。
羊羹《ようかん》でお茶の御馳走《ごちそう》になってから、そこを出た。
「私なぞとてもお話相手にはなれませんけれど、これからちょいちょいどうぞお遊びに……。」
おけいさんはそう言って、通りへの出口まで送ってくれた。
「何かあるんだぜ。」
「そうね。今のところそれは無いでしょうよ。このごろ何だか少し変だけれど。エロ話なんか随分するのよ。」
静岡で大きな茶の問屋をしている小夜子の姉の家と親しいおけいさんの実家との関係から、二人は東京でも互いに親しくしているのであった。
「ハインツェルマンのお玉さんのところへ、ちょっと寄ってみません?」
通りへ出てから、小夜子が言った。
「ハインツェルマンって……。」
「先生はまだ御存じなかったんでしたっけ。ハインツェルマンという独逸人《ドイツじん》と同棲《どうせい》している尼さんよ。」
「その独逸人は?」
「若い技師よ。」
小夜子が七年間同棲していた独逸のフォン・クルベーとの関係から、小夜子はいろいろな独逸人を知っているものとみえ、いつかも銀座を歩いていると、尾張町《おわりちょう》の角のところで、五十年輩の、あまり上品でない独逸人に出逢《であ》って、小夜子がはずそうとするのを、何かと揶揄《からか》い面《がお》でどこまでも附いて来たこともあった。
「あれは何さ。」
と聞いても、小夜子は「ううんいやな奴《やつ》よ」と笑っているきりだった。
ハインツェルマンは、ちょっとした門構えの家に住んでいた。小綺麗にしている、丸髷《まるまげ》の母親が玄関にすわってお辞儀したが、お玉さんも小夜子の声を聞きつけて奥から出て来た。彼女は質素な洋服を着ていたが、まん丸な色沢《つや》のあまりよくない顔が、寂しいなりににこにこしていた。髪は無論ボッブされていた。そしてどの部屋も、翻訳劇の舞台装置のようなものだったが、二階の八畳敷には、安ものの青い絨毯《じゅうたん》が敷かれて、簡素な卓子《テイブル》と椅子《いす》が並んでおり、がっちりした大きな化粧台の上に、幾つかの洋酒の壜《びん》も並んでいた。
見たところお玉さんは、単純と従順そのもののような女だったが、内心|負《ひ》け目を感じているらしく朗らかだとは言えなかった。
「カクテルでも召《め》し食《あが》りません?」
彼女は大事そうにしてある幾種かの酒の壜を覗《のぞ》きながら、卓子
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