ら、彼女に打算のありそうもなかった。それが多少あったにしても、純真な博士の前では問題にもならないはずであった。結果からみれば博士が少し上手《うわて》だということになりそうだった。
葉子は患者として、博士の邸宅をも訪れたことがあるらしく、生活の程度を大体それで推測していた。
「けれどK――さんそう言ってたわ。先生はいい人だから大事になさいって。私が逗子へ行くのも、この事件を清算するのにいいからなのよ。」
庸三は黙って聴《き》いていたが、遠いところに離れていれば、博士に遭《あ》う機会が自由に作れるのだという気もした。博士の方から手を引こうとしていることは解るが、葉子のあれほどの熱情が、水をかけた火のように消えるものかどうか、疑わしかった。
「私K――さんにお礼しようと思うけれど、何がいい?」
そんな関係にまで進んでいてそれにも及ばないという気がしたが、そうするといよいよ清算かなとも考えた。
「およそどのくらいのものさ。」
「あまり吝《けち》なこともできないでしょう。葉捲《はまき》どう?」
「よかろう。」
「三十円くらいで、相当なものある?」
「僕は知らんけど……。」
葉子が逗子へ家《うち》を捜しに行ったのは、それから二三日してからであったが、そのころには奉書二枚に包んで水引をかけた葉捲の函《はこ》も買い入れて、庸三の部屋へ来て見せたりしていた。
ちょうどそれと同時に、下宿の部屋の窓先きに、丸い鳥籠《とりかご》がかかっていて、静かな朝などに愛らしいカナリアの啼《な》き声が、彼の部屋へも聞こえて来たが、それが葉子の引越しを祝って、彼女の弟が餞別《せんべつ》にくれたものだというのは嘘《うそ》で、実はK――博士の贈りものであったことを、迂濶《うかつ》な庸三も大分後になってやっと感づいて、それでともかくこのロオマンスに大詰が来たことも呑《の》みこめた。
庸三が葉子につれられて、初めて逗子へ行っていたのは、引き移ってから四五日してからであった。
庸三は実は行くのも物憂《ものう》いような気がしていたが、その家へぜひ来て見てもらいたいような様子なので、つい行く気になった。これからの季節には、あの辺の海岸も盛《さか》るころで、あのホテルに若い人たちも集まるはずであった。前から家をかりている若い流行作家のあることも知っていたし、長男の同窓でブルジョアの一人|息子《むすこ》である秀才のマルクシストの邸宅のあることも解っていた。葉子の家がそれらの青年たちにとって、気のおけない怡《たの》しいサルンとなることも考えられないことではなかった。ぼろぼろになった恋愛を、今さらそんな処《ところ》まで持ち廻るのも恥ずかしいことだったし、子供たちから遠く離れているのも不安だった。
葉子は借りた家の間取りや、玄関の見附き庭の構図などについて、嬉《うれ》しそうに説明していた。
「それが五十円なの。安いじゃないこと。」
そんな家を借りて、どうするのだろうと、小心な庸三は心配になった。連載ものを書いている間はいいとしても、それがいつまで続くものでもなかった。もちろん彼女はいつも贅沢《ぜいたく》をするとも決まってないので、本当に頭脳《あたま》の好い主婦だという感じのする場合もあったが、世帯《しょたい》は世帯として、とかく金のかかるように出来ていた。メイ・牛山あたりで買って来る化粧品だって、相当のものであった。たまにはいくら庸三が補助するにしても、いつかは破綻《はたん》が来るに決まっていた。
しかし葉子は、今までの生活を清算して、そこで真剣にみっちり勉強するつもりであった。瑠美子を人にあずけておいても気がかりなので、それも手元に置きたかった。移るについて、母親からいくらか金を送ってもらっていた。母はまだまだ葉子を見棄《みす》ててはいなかった。
庸三は折鞄《おりかばん》をさげて、ぶらりと家を出た。そしてタキシイで東京駅へ乗りつけたが、海岸の駅へ着いたころには、永くなった晩春の日もすでに暮れかけていた。
タキシイで通る海岸の町は閑寂《ひっそり》したもので、日暮れの風もしっとりと侘《わび》しかった。庸三は何かしら悪い予感もあったが、しばしばのゴシップに怖《お》じ気《け》もついていたので、とかく落ち着けない気分だった。葉子は珍らしく、家へ帰るとすぐ鱗型《うろこがた》の銘仙《めいせん》の不断着に着かえ、髪も乱れたままで、ホテルの傍《そば》にある肴屋《さかなや》や、少し離れたところにある八百屋《やおや》へ、女中のお八重をつれて買い出しに行ったりして、晩飯の支度《したく》に働いた。尻端折《しりっぱしょ》りで風呂《ふろ》へ水を汲《く》みこみもした。
「こんな新しい海老《えび》よ、烏賊《いか》のお刺身も頼んで来たのよ。」
葉子は肴屋から届いた海老を、庸三の前へ持って来て見せた。
「ほんとうにやる気かしら?」
庸三はそんな気もしたが、郊外の町のホテルに彼を置き去りにした時の、何かに憑《つ》かれたような気分はどこにも見られなかった。花火線香のような情火が、いつまたどんな弾《はず》みで燃えあがるまいものでもなかったし、新らしい生活に一時飛びつくような刺戟《しげき》を感じはしても、じきに飽きの来ることも解っていないことはなかったが、それはその時にならなければ、やはり解らないことであった。それに庸三は、生活の責任を回避しながら――それには現実に即しえられない彼女の本質的な欠陥があるという理由があるにしても――彼女の愛を偸《ぬす》もうとする利己心を、性格のどこかに我知らず包蔵していた。もっと悪いことには、自身の生活にある程度|創《きず》がついても、知るだけのことは知りたいと思った。無論それも頭のうえの口実で彼の気持はもっと盲目的に動いていることも、争えなかった。葉子を通して、彼は微《かす》かな触れ合いで済んで来た、過去の幾人かの女性にも目が開いて来た。
二方庭に囲まれた奥の八畳で、何か取留めのない晩餐《ばんさん》がすんで、水菓子を食べながら、紅茶を飲んでいる間に、風呂《ふろ》も湧《わ》いて来て、庸三は八重子に背中を流してもらいながら湯に浸った。
やがて瑠美子が寝てしまうと、環境もひっそりしてしまって、浪《なみ》の音が聞こえて来た。
「海へ出てみません?」
葉子が誘うので、ステッキをもって門を出た。ホテルの入口がすぐそこにあった。
「もしラジオをお聴《き》きになりたかったら、ホテルで聴かれますのよ。」
葉子はそう言って、ホテルの裏の小路をぬけて浜へおりて行ったが、このホテルの内容や、マスタア夫妻の生活や人柄についても、すでに感じの細かい知識をもっていた。
海は暗かった。堆高《うずたか》い沖の方が辛うじて空明りを反映させていた。それに海風も薄ら寒かった。葉子は口笛を吹きながら、のそりのそりと砂浜を歩いていたが、ふと振り返ると、マッチをつけかねていた庸三に寄り添って、袖《そで》で風を遮《さえ》ぎった。
「楽しくはない?」
「そうね。」
葉子は夢の中を歩いているような、ふわふわとどこまでも渚《なぎさ》を彷徨《さまよ》っていたが、夜の海の憂愁《ゆうしゅう》にも似た思いに沈みがちな彼女とは、全く別の世界に住んでいるような、相手が相手なので、何か飽き足りなそうであった。しかし葉子は再び彼によって、今少し確かな足を踏み出そうとはしているのだった。
十六
この平凡な内海に避暑客が来るにはまだ間があった。砂|悪戯《いたずら》や水|弄《いじ》りをしたり、または海草とか小蟹《こがに》とか雲丹《うに》などを猟《あさ》ってあるく子供や女たちの姿は、ようやく夏めいて来ようとしている渚に、日に日に殖《ふ》えて来て、気の早い河童《かっぱ》どもの泳いでいるのも初夏の太陽にきらきらする波間に見られた。葉子も瑠美子と女中をつれて、潮の退《ひ》いた岩を伝いながらせせらぎを泳いでいる小魚を追ったり栗《くり》の毬《いが》のような貝を取ったりした。彼女はその毬のなかから生雲丹を掘じくり出すことも知っていた。庸三もステッキを突きながら所在なさに岩を伝って、葉子たちの姿の見えないような遠いところまで出て行って、岩鼻に蹲居《しゃが》んで爽《さわ》やかな微風に頸元《くびもと》を吹かれながら、持前のヒポコンデリアに似た、何か理由のわからない白日の憂愁に囚《とら》われていた。そうやっているうちにも彼は一刻も生活を楽しんでいる気にはなれなかった。一方早く自身の生活に立ち還《かえ》らなければならないという焦燥《しょうそう》に駆られながらも、危ない断崕《だんがい》に追い詰められているような現実からどう転身していいかに迷っていた。彼は飛んでもない舞台へ、いつとなし登場して来たことを慚《は》じながらも、手際《てぎわ》のいい引込みも素直にはできかねるというふうだった。浪子《なみこ》不動がすぐその辺にあった。庸三は名所|旧蹟《きゅうせき》という名のついたところは、一切振り向くのが嫌《きら》いだったが、時には葉子とそこまで登って行ったこともあった。ホテルへ来て物を書いている人気作家のK――氏と一緒のこともあって、K――氏とは撮影所へつれて行ってもらったりしていたし、人の羨《うらや》む新婚生活も、そのころはすっかり前途の幸福も保障され、そこからまた新らしい人気も湧《わ》いていたので、葉子もついに三人一緒に歩きながら、何かK――氏に訴えてみたいような気持を口にしがちであった。
「今のままで結構じゃありませんか。」
K――氏は言っていたものだが、そういう後では、葉子の気持にも何か動揺があった。彼女は博士《はかせ》事件以来、ここへ引っ越して来てから、自身の不乱次《ふしだら》を深く後悔しているように見えた。少なくとも今しばらく庸三との最初の軌道へ立ち戻っているよりほかないものと、虫を抑えているらしかったが、しかし考えようによっては清算しきれないものが残っているかも知れなかった。博士との関係をずっと持ち続けるには、かえって遠ざかっている方が、とかく名誉に傷つきやすい博士のために有利だと考え、擬装のためわざと庸三を利用しているように思われないこともなかった。そのころまだ博士の贈りものだとも気づかなかったので、捲毛《まきげ》のカナリヤの籠《かご》の側で、庸三はよく籐椅子《とういす》に腰かけながら、あまり好きでないこの小禽《ことり》の動作を見守っていたものだが、いくらかの潜在的な予感もあったので、葉子のこの小禽に対する感情をそれとなく探るような気持もあった。彼は少年のころ小鳥を飼った経験があるが、枝にいる時ほど籠の小鳥は好きではなかった。この繊細なカナリヤも飼い馴《な》れない葉子の手で、やがて死ぬだろうと思うと、好い気持がしなかった。
やがて梅雨期にでも入ったのか、この海岸の空気も毎日|陰鬱《いんうつ》であった。葉子はある日のお昼過ぎ、婦人雑誌社を訪問する用事があって、一人で東京へ行った。庸三もそう続けてそこにいたわけでもなかった。葉子と生活をともにしていることも、決して楽ではなかった。自身の家庭に居馴らすことができてこそ、女も彼の日常の伴侶《はんりょ》であり、朝夕の話相手でありうるのだったが、彼の生活に溶けこむこともできない生活条件の下では、かえって重荷を、あんな事件もあった後で、もうこの辺で卸してしまいたい気もしていた。若い彼女の生活に附き合って体や頭を痛めながら調子を合わしていることは、何と言っても苦痛であった。生活の負担も考えないわけに行かなかった。
東京へ帰ると、彼はまた大川端《おおかわばた》の家へ行って、風呂《ふろ》に入ったり食事をしたりして、やっと解放されたような気分になれるのであった。
入れかわりに長男に連れられて、子供たちが逗子へ行ったりしたが、そのころには博士との関係についての彼の疑いも、いつか微《かす》かな影のようなものになっていた。
二度三度行くうちに、何か疎《うと》ましい感じだった逗子の町や葉山の海岸にも、いつとはなし淡い懐かしみも出来て、この一と夏を子供と一緒にここで過ごすのも悪くないとい
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