にごわごわした袴《はかま》で、博士がやって来たのは、間もなくであった。葉子は博士が来てくれることを知ってから、にわかに顔色が晴れた。ちょうど庸三は煙草《たばこ》を買いに、事務室のところへ来ていたが、そこへ目の大きく光った博士がおずおず入って来て、慇懃《いんぎん》に言葉をかけた。
「お見舞いに上がったのですが……。」
「お忙しいところ恐縮でした。どうぞ。」
和服姿で肱掛椅子《ひじかけいす》にかけたところは、博士はいかにもどっちりした素朴《そぼく》な中年の紳士であった。
葉子はじめじめした時雨《しぐれ》が退《ひ》いて、日光が差したように、枕《まくら》のうえに上半身を擡《もた》げて、「先生!」とさも親しげに呼びかけながら、庸三をそっち退《の》けの、朗らかな声で話しかけたが、博士は庸三に気を兼ねるように、むしろ話のはずむ彼女に目配《めくば》せしたいような目つきで、穏やかに受け答えをしていた。話は大体博士の洋行中の生活に関することであった。
やがて紅茶を啜《すす》ってから、診察に取りかかった。患者として扱いつけられたという以上の焼きつくような、しかし博士の良心によって適当に節制された愛の目の微笑《ほほえ》み合っていることは、少し薄暗い電気の光りでは、庸三の目にそれと明白に映るわけには行かなかったが、毛布の裾《すそ》をまくってとかく癒《なお》りのおそい創《きず》を見る時になって、彼は急いで部屋の外へ出てしまった。そしてどんな言葉が囁《ささ》やかれたかは、知る由もなかった。
庸三は圧《お》し潰《つぶ》されたような気持で、廊下を歩いていたが、ちょうどその時、婦人文芸雑誌記者のR――がやって来た。
庸三がR――を誘って、部屋へ入って来たころには、久しぶりの創の手当も済んで、博士は旧《もと》の椅子にかえっていた。庸三は鑵入《かんい》りのスリイ・キャッスルを勧めながら、ずっと以前、同じ病院で、院長によって痔瘻《じろう》の手術をした時の話などした。その時博士は独逸から帰ったばかりであった。そうしているうちに、博士が自分に好意をもつと同時に、淫《みだ》らな葉子の熱病にも適当な診察が下されるであろうことも想像できるように思えた。何よりも博士には高い名誉と地位があった。彼は貴《とうと》いあたりから差し廻される馬車にも、時には納まる身分であった。
しかし無反省な愛執に目を蔽《おお》われた庸三にも、この怖《お》じ気《け》もない葉子の悪戯《いたずら》には、目を蔽っているわけには行かなかった。彼は少し興奮していた。そして彼への原稿の依頼をかねて、葉子にも何か短いものをと、記者が話し出した時にいきなり侮辱の言葉を浴びせた。
「こんなものに何が書けるものか。」
「いや、しかし先生の目が通れば……。」
「僕は御免ですよ。」
庸三はこの場合博士の前で、莫迦《ばか》げた道化師にされた鬱憤《うっぷん》を、それでいくらか晴らしたような気もしたが、記者につづいて、博士が辞して行ったあと、一層憤りが募って来た。彼はベッドの傍《そば》を往《い》ったり来たりしながら、葉子を詰《なじ》った。葉子はそれについては、弁解がましいただの一言も口にしなかった。
やがて庸三は原稿紙や雑誌や、着替えのシャツのようなものを、無造作にトランクに詰めはじめた。そして錠をおろすと、ボオイを呼んでビルを命じた。
「K――さん名誉ある人ですから、それだけはお考えになってね。」
葉子は目に涙をためながら哀願した。
「それに先生も少し邪推よ。後で話しますわ。」
勘定をすますと、庸三は重い鞄《かばん》を提《さ》げて、いきなり部屋を出ようとしたが、駅まで行くには車を呼ぶ必要もあった。懇意になりかけたマスタアやボオイたちの手前、病人の葉子を置き去りにするのも、体裁が悪かった。K――博士との関係が、どこまで進んでいるかも気懸《きがか》りであった。何よりも適当な時機に、衷心から釈《と》け合うことは望めないにしても、表面だけでも来た時のようにして一緒に帰りたかった。一人帰れば、あの寂しい書斎でやる瀬のない一夜を、おちおち眠ることもできずに苦しみ通すに違いないのであった。
庸三はやがて食事を部屋へ持ちこませて、フォクを執ったが、葉子はコンソメの幾匙《いくさじ》かを啜《すす》って、オレンジを食べていた。
「御免なさいね。」
葉子はそう言って、またベッドに仰向きになった。庸三は赤々と石炭の燃えているサルンへと出て行った。
間一日おいて、ある日の午後葉子はしばらくぶりで、踊りの師匠に内弟子として預けてある瑠美子の様子を見に行きたいとかで、ちょうど遊びに来合わせていた二人の青年と一緒に出て行った。青年たちが省線で帰るにつけて、ふと思いついたふうにも見えたが、庸三もいつもの気持で送り出しもしなかったし、葉子も何か棄《す》て台詞《ぜりふ》めいた言葉を遺《のこ》して出て行った。庸三は二度とホテルへは帰って来るな、といった意味の言葉を送ったが、彼女は彼女で家《うち》の一軒も建ててくれるだけの親切でもあるならと、差し当たっての彼女の要求をそれとなく匂わした。
独りになってみると、部屋がにわかに広々してみえ、陰鬱《いんうつ》に混濁した空気が明るくなったように見えた。気もつかないうちに、春はすでに締め切った硝子窓《ガラスまど》のうちへもおとずれて来て、何かぼかんとした明りが差していた。いつか散歩のついでに町の花屋で買って来たサイネリヤが、雑誌や手紙や原稿紙の散らばった卓子《テイブル》の隅《すみ》に、侘《わび》しく萎《しお》れかかっていた。
じきに夜になった。庸三は外へ出る興味もなく、風呂《ふろ》へ入ってから、照明のほのぼのした食堂へ入って行った。洋楽のレコオドがかかっていて、外人が四五人そっちこっちのテイブルに散らばっていた。
アメリカ帰りのマスタアが、ここにこのホテルを建てた当初から現在に至るまで、およそ十年余りのあいだ、ここに滞在している仏蘭西人《フランスじん》の異《かわ》ったプロフェッサが一人いることは、いつか初めて葉子をつれて、日本座敷に泊まっていた時、マネイジャ格の老ボオイから聞いた話だったが、庸三はそれがどんな男か、それらしい老紳士の姿を、廊下でもサルンでも一度も見たことはなかった。彼は部屋を決める時、半永久的に床を自分の趣味で張りかえ、壁紙や窓帷《カアテン》も取りかえて、建築の基本的なものに触れない程度で、住み心地《ごこち》の好いように造作を造りかえた。
生活もすこぶる厳格なもので、夜分に外出するということもほとんどなく、外で食事をするようなこともめったに聞かなかった。学校が休みになると彼は毎年行くことにしている、長崎《ながさき》のお寺で一夏を過ごすのも長年の習慣であった。彼は庸三と大抵同じくらいの年輩らしかった。
庸三は葡萄酒《ぶどうしゅ》を一杯ついでもらって、侘《わび》しそうにちびちび口にしながら、ほんの輪廓《りんかく》の一部しか解《わか》っていないその外人の生活を、何かと煩累《はんるい》の多い自身に引き較《くら》べて思いやっていた。さりとて信仰なしに宗教の規範や形式に自身を鋳込《いこ》むのも空々しかったし、何か学術の研究に没頭するというのも、柄にないことであった。彼は長いあいだの家庭生活にも倦《う》みきっていたし、この惨《みじ》めな恋愛にも疲れはてていた。心と躯《からだ》の憩《いこ》いをどこかの山林に取りたいとはいつも思うことだが、そんな生活も現代ではすでに相当|贅沢《ぜいたく》なものであった。
一盞《いっさん》の葡萄酒が、圧《お》し潰《つぶ》された彼の霊ををとろとろした酔いに誘って、がじがじした頭に仄《ほの》かな火をつけてくれた。そして食事をすまして、サルンのストオブの側に椅子《いす》を取って煙草《たばこ》をふかしていると、幾日かの疲れが出たせいか、心地《ここち》よく眠気が差して来た。
やがて彼は部屋へ帰って、着物のままベッドに入った。この場合広いベッドに自由に手足を伸ばして、体を休めることが、彼にとって何よりの安息であった。
庸三は葉子が帰って来るようにも思えたし、帰って来ないような気もして、初めはむしろ帰って来ない方がせいせいするような感じだったが、うとうと一と寝入りしてから、およそ一時間半も眠ったろうか、隣室の客が帰って来た気勢《けはい》に、ふと目がさめると、その時はもう煖炉《だんろ》を境とした一方の隣りにあるサルンにも人声が絶えて、ホテルはしんと静まりかえっていたので、事務室の大時計のセコンドを刻む音や、どこかの部屋のドアの音などが、一々耳につきはじめて、ふっと入口のドアの叩《たた》く音などが聞こえると、それが葉子であるかのように神経が覚《さ》めるのだった。
何時ごろであったろうか、病人のように慵《ものう》い神経が、ふと電話のベルに飛びあがった。りんりんと続けさまに鳴ったが、ボオイたちもすっかり寝込んでいると見えて、誰も出て行くものがなかった。宿泊人はいずれも朝の勤めの早いサラリーマンなので、こんな遅くに電話のかかって来るはずもなかった。庸三は多分葉子だろうという気がして、よほどベッドを降りようかと思ったが、意識がぼんやりしていたので、それも億劫《おっくう》であった。するうち彼はまたうとうとと眠ってしまった。
翌日庸三はそこを引き揚げて、しばらくぶりで書斎へ帰って来た。からりと悪夢からさめたような感じでもあったが、頭脳のそこにこびり着いた滓《かす》は容易に取れなかった。そして机の前に坐っていると、不眠つづきの躯のひどく困憊《こんぱい》していることも解った。彼は近所の渡瀬《わたせ》ドクトルに来てもらって、躯を診《み》てもらった。ドクトルは彼のこのごろの生活をよく知っていたが、ずっと第二号と暮らしていたので、いつもよりシリアスな態度で聴診器を執ってくれた。
「まあ神経衰弱でしょうね。よく眠れるように薬を加減して差しあげましょう。」
「どうもこういう生活が怖《こわ》いんですが、いけないんでしょうな。」
「それかと言って、この部屋も独りじゃ随分寂しいですからね。」
ドクトルが帰ってから、彼は夕方まで眠った。
四月の末になって、葉子は逗子《ずし》の海岸へ移ることになった。
そのころにはK――博士《はかせ》との関係も、すでに公然の秘密のようなもので、双方の気分の和《なご》やかな折々には、葉子も笑いながら、興味的なその秘密をちらちら洩《も》らすのであった。
「ああいう人たちの生活は、本当に単純で罪のないものなのよ。私たちの生活がどんなにか花やかで面白いものだろうかと思っているの。あの人は職業上の関係で、下谷《したや》のある芸者を知っていたの。私と同じ痔《じ》の療治で入院していて、退院してからちょいちょい呼んでやったことがあったものよ。その人の面差《おもざ》しが私によく肖《に》ているというのよ。」
「ふむ。君との関係は、いつから?」
庸三はきいて見た。
「ううん、それももっと後になったら、詳しく話すけれど……。あの人の位置を摺《す》り換えさえすれば、書いてもいいわよ。いろいろ面白いこと教えてあげるから。でも、先生怒るから。」
庸三は苦笑した。
「初めは……どこへ行った?」
「夜、遠いところへドライブしたら、あの人びっくりしてた。」
「退院してからね。」
「そうよ。遅くまで残っていた時、あの人の部屋でキスしてもらったの。」
そうしたシインも容易に彼に想像できるのであった。
「面白い手紙もあるわよ。人格者らしく真面目《まじめ》で、子供のように単純なのよ。」
「見せてごらん。」
「それももっと後に。」
しかし庸三は良心的に、あの博士のそうした秘密などにあまり触りたくはなかった。知れば知るほど自分の下劣さを掘り返すにすぎなかった。
「金があるのかしら。」
ちょっとそれにも触れてみた。
葉子はその収入を大掴《おおづか》みに計算しはじめたが、財産がどのくらいのものかは解《わか》りようもなかった。もちろん二人で遊ぶ時の費用は、大体葉子が払っているものと見てよかったか
前へ
次へ
全44ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング