いた。葉子は人の少ない時黒い羽織を着てよくそこへ入って行った。そして煖房《だんぼう》の熱《ほて》りから少し離れたところで、アメリカの流行雑誌などを見ていたものだが、外人たちの雰囲気《ふんいき》も嫌《きら》いではなかった。
「先生……。」
 彼女はそう言って、時々人気のない煖房の前へ彼を誘い出すこともあったが、大抵二人きりでいる部屋が気詰りになって来ると、うそうそ廊下へ出て行くのであった。庸三はK――博士とのなかを、朧《おぼろ》げに感得していたものの、先きは人も知った人格者であり、尊《とうと》いあたりへも伺候して、限りない光栄を担《にな》っている博士なので、もし葉子の嬌態《きょうたい》に魅惑された人があるとしても、それは病院の他の若い人か、それとも、例の婦人雑誌の記者だろうかとも思ったり、または真実はやっぱり刀を執ってくれたK――博士のようにも想像されたりした。が、庸三も彼女の物質上のペトロンを失ったことに、多少の責任を感じてもいたし、物質的にまだ一度もこれという力を貸していないことに相当|負《ひ》け目も感じていたので、そんな点では決してぼんやりしていない彼女なので、何かの手蔓《てづる》を見つけて、その方の工作も進めつつあるのだろうという気もしながら、とかく不安や嫉妬《しっと》に理性を失いがちな彼ではあったが、そうした憂鬱《ゆううつ》な苦悩のなかにも、彼としては八方から襲いかかって来る非難のなかに、彼女の存在を少しでも文壇的に生かしたいと思った。恋愛も恋愛だが、この崩れかかって来た恋愛に、何か一つの目鼻がつき、滅茶々々《めちゃめちゃ》になった彼の面目《めんぼく》が多少なりとも立つものとすれば、それは彼女の才能を伸ばすことよりほかの手はなかった。
 冬の日差しの暖かい静かな町へ、二人は時々散歩に出かけたが、庸三に寄り添って歩いている葉子はとかく神経的な感傷に陥いりがちで、鈍感な彼に何かを暗示するような謎《なぞ》の言葉をかけることもあった。ちょっと特色のあるホテルの食事にも飽きると、遊びに来た若い人たちをも誘って、ガアドの先きにある賑《にぎ》やかな小路の小料理屋へ入って、海岸の町らしい新鮮な蟹《かに》や貝の料理を食べることもたびたびあった。ちょうどプロレタリア文学の萌芽《ほうが》が現われかけて来たころで、若い人々の文学談にもそんな影が差していたが、話の好きな葉子はことに若い人たちから何かを得ようと、神経を尖《とが》らせていた。去年の秋もたけなわなころ、まだ手術を思い立たない前の彼女をつれて、箱根までドライブしたことがあった。夜も大分遅くなって、痔《じ》に悩んでいた彼女はクションの上に半身を横たえてぐったりしていたが、九時ごろに宮の下のある旅館の前へ自動車を着けさせてみると、酒に酔った学生たちが多勢《おおぜい》、上がり口に溢《あふ》れていてわあわあ言っていたので、庸三はにわかに怖《お》じ気《け》づいて、いきなりステップを降りかけようとしてまたクションに納まろうとした。そして運転士に方向を指そうとした途端に、四五人の学生はすでに車の周《まわ》りを取りまいてしまった。
「××博士もいられます。あなたに遭《あ》いたいそうですから。」
 押問答をしているうちに、一人の青年がそう言って庸三を勧説《かんぜい》した。彼は頑固《がんこ》に振り切るのも潔《いさぎよ》くないと思ったので、彼らの好意に委《まか》せることにした。彼らは不意に目の前に現われた二人を弥次《やじ》っていなかった。むしろその反対に「こんな恋愛を攻撃するのは封建思想ですよ。大いにおやんなさい」と言って、玄関へ上がって行った葉子を取りまいて、万歳を叫びながら胴あげしていた。庸三はきまりが悪くなって、その隙《すき》にするするとそこをぬけて、番頭の案内で、二階の一室に納まったが、やがて部屋へ入って来た葉子の疲れた顔にも、興奮の色があった。
「困ったな。悪いところへ来てしまった。」
「あの人たちみんないい感じよ。帝大の人たちだわ。」
 臆面《おくめん》のない葉子のことなので、それを好いことにしていた。
 二人は一と風呂《ふろ》入ってから、食事を初めた。そこへ十人ばかりの学生が、前よりも真面目《まじめ》な態度で、文学論を闘《たたか》わしに来たが、葉子はそれを一手に引き受けて、にやにや笑っている庸三をそっち退《の》けに、綺麗《きれい》な手にまで表情をして、薄い唇《くちびる》にべらべらと止め度もなく弁じ立てたものだったが、その時に限らず、青年たちの訪問する時、彼らの愉快な談話に対するのはいつでも葉子で、庸三は聴《き》かぬでもなしに口数を利かなかった。どうかすると庸三の思いも及ばない美しい詩が、出任せな彼女の口から閃《ひら》めいたが、庸三にとってはそれが花か月のような女性の世界の神秘のような匂いもするのだった。
 ある晩も二人は行きつけの小料理屋の一室で、食事をしていた。庸三はどこへ行っても、床の間の掛軸や花瓶《かびん》などに目をつける習慣になっていて、花の生け方などで料理がひどく乱暴なものか否かを大体|卜《ぼく》するのであったが、今そこに蕪村《ぶそん》と署名された南画風の古い軸がかかっていたので、それが偽物だということは、絵柄と場所柄でわかるにしても、ひょっとすると掘出し物ではないかという好奇心も手伝って、無下に棄《す》てたものでもなさそうなその絵を幾度となく眺め返していた。彼は逃げようとして絶えず隙を覗《うかが》ってでもいるような、何かぴったりとしない葉子の気分に、淡い懊悩《おうのう》と腹立たしさを感じながら、それを追窮する勇気もなく、それかと言って器用に身を交《かわ》すだけの術《すべ》もなく、信じないながらにわざと信じているようなふうをして、苦悩の泥濘《でいねい》に足を取られていた。それというのも、そういう場合の彼女の媚態《びたい》が、常よりも一層神経的でもあり煽情的《せんじょうてき》でもあって、嫉妬と混ざり合った憎悪と愛着の念が、彼を一種の不健康な慾情に駆り立てたからで、お互いに肉情的な泥《どろ》仕合いに爛《ただ》れているのであった。
 その夜も庸三は少し不機嫌《ふきげん》になっていたが、どうかした拍子に、
「先生私をあまり重荷にお思いでしたら……。」
 と葉子はふとそう言って、寂しそうな表情をしていた。
 庸三は何か別のことを考えていたので、その言葉をはっきり聴《き》き取ることもできず、その意味を問い返すだけの意識もなくて、押し黙っていたが、彼女の背後にあるものの影が、仄《ほの》かにぼかされていた。
 サルンに人のいない時、葉子は時々読んでいる本を伏せて庸三の傍《そば》を離れた。庸三は高すぎるくらいの卓子《テイブル》に向かって、廻転椅子《かいてんいす》にかけながらペンを執っているのだが、姿の見えぬ彼女の一挙一動を感知しようとするもののように、耳を澄ましていた。かつて彼女は、庸三の家へ入りたてのころに、独りで帝国劇場へ女優劇か何かを見に行ったことがあった。その時多分彼女のどうかした表情が、その結果を生んだものであろうが、隣に座席を取っていた米国人らしい若い一人の紳士が、覚束《おぼつか》ない日本語で彼女に話しかけた。双方の言葉が通じるというわけには行かなかったが、同伴者があるかどうかくらいのことは解《わか》った。葉子はかねがね白色外人に興味をもっていたけれど、不良外人の多いことをも知っていたので、そんな観衆のなかで煩《うるさ》く話しかけられるのがいやだった。彼女は座席を離れて廊下へ出た。そして売場の前を通ってバルコニイへ出て、濠端《ほりばた》の夜景を見ていた。五月のころでもあったろうか、街路樹の葉はすでに蒼黒《あおぐろ》く繁《しげ》っていて、軽い雨がふっていた。それは外人から逃げるためか、それとも誘い出すためだったか、彼女の話だけでは本当のことは解る由もなかったが、多少の好奇心に駆られていたものと思っても、間違いではなかった。ずっと後にある独逸《ドイツ》の青年学徒と、しばらく係り合っていたという噂《うわさ》と照らし合わせてみても、すべてのモダアンな若い女性の例に洩《も》れず、そうした外人にある憧憬《しょうけい》をもっていたものと見てもよかった。――とにかくバルコニイに立っている葉子は、何か訳のわからない恐怖に似た胸の戦《わなな》きをもって、近づく廊下の靴音に耳を澄ましていたに違いなかった。果して青年は近づいて来た。そしてたどたどしい日本語で今下へおりて自動車を呼ぶから、一緒にドライヴしようと申し出た。無論相手がどんな種類の人間だかも解らなかったし、感違いの侮辱も感じたので、葉子は手まねで拒絶したが青年は肯《き》かなかった。そして押問答しているうちに、案内女や通りすがりの観客の足がそこに止まったところで、葉子は先刻ちょっと廊下で偶然に会って立話をした草葉の知合いの、婦人運動などやっているO――女史に頼んで来てもらって、やっと自身の身分を知らせることができた。O――女史は彼女が有名な女流作家であることを、わざと宣言したのであった。
 その後葉子は、銀座の曾根《そね》のスタジオへ撮影に行った帰りに、飾り窓の前に立っていると、またしてもその青年外人が傍に立って、にやにやしているのに気づいたが、その時は目と目と笑《え》み合っただけで、二三町それとなく迹《あと》をつけられた感じだったが、何のこともなかった。そのころの葉子には、まだ娘気の可憐《しおら》しさや、文学少女らしい矜《ほこ》りもあった。
 庸三は今外人のホテルに葉子と二人いて、そんなことも思い出さないわけに行かなかった。ここにいる若い外人は大抵官省や会社に勤めている技師のようであったが、中には着いたばかりで、借家を捜すあいだの仮りの宿として、幾箇《いくつ》かのトランクを持ち込んで来る新婚の夫婦もあった。庸三が一日に何度となく、跫音《あしおと》を偸《ぬす》むようにして、廊下へ出て行く葉子の動静に気を配ることを怠らなかったのも、一つはそのためでもあった。
 ある時はまた、そっと玄関に近い事務室の傍にある電話口へ出て行って、どこかへそっと電話をかけているのではないかという彼女の気配が、微《かす》かに感じられるような気がしたりしたが、夜はいつまでもラジオを聴《き》いていることもあった。
 来客などのあった時とか、または少し離れたところに、名高い女流作家と異《かわ》った愛の巣を造っている若い作家を訪れたりした時には、庸三はホテルの人たちが寝静まったころに、やっと原稿紙に向かうことができた。彼はしばしばサロンの外人たちの間に交じって、彼女と一緒にお茶やケイキを食べたが、彼自身も今少し度胸があったら、何か話したそうにも見えるそれらの人たちと言葉を交したい方であった。
 するとある夜葉子は、いつもの神経的な発熱でベッドに横たわりながら、本を読んでいたが、うとうとしていたかと思うと、ヒステリカルに彼を呼んで白い手を伸ばした。昼間葉子は庸三の勧めで幌車《ほろぐるま》に乗って町の医院を訪れ、薬を貰《もら》って来たのであったが、医者は文学にも知識をもっているヒュモラスな博士《はかせ》で、葉子の躰《からだ》をざっと診察すると、もうすっかり馴染《なじみ》になってしまった。しかしこの場合葉子に利くのはその処方ではなかった。
 庸三も何となしこの生活に疲れていた。新聞一回書くのにも気分が落ち着かなかった。葉子が病気になると一層|憂鬱《ゆううつ》であった。彼は葉子を落ち着かせるために、側へ寄って行くのだったが、彼女はいつも啜《すす》り泣いているような表情で、目も潤《うる》んでいた。
「先生も可哀《かわい》そうな人ね。」
 葉子はそう言って、彼の手を取ったが、この重苦しい愛着の圧迫に苦しんでいる、それは彼女の呻吟《しんぎん》の声でしかなかった。
「お察しの悪いったら……。」
 彼女は心に呟《つぶや》いているのだった。
 翌日も熱発が続いた。そして日の暮近くになってから、我慢しきれなくなった葉子の希望で、K――博士に来診を乞《こ》うことにした。
 縫紋《ぬいもん》の羽織
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