問を発する庸三たちの方が、よほど可笑《おか》しいとでも思っているらしかった。葉子のところへ来る電話、葉子の方からかける電話――葉子が何をしているかは実際年の行かないお八重にも解《わか》るはずもなかったが、ほかに何か異性の友達があるくらいのことは解っていた。葉子は事によると、その異性との秘密を、傍《そば》にいるお八重にも打ち明けているのかもしれないのであった。
 庸三は原稿紙やコムパクトや何かの入った袱紗包《ふくさづつ》みをもたせ、春雨のふる街《まち》を黒塗りの高下駄《たかげた》を穿《は》いて、円タクの流している処《ところ》まで、お八重に送らせて行った葉子の断髪にお六|櫛《ぐし》を挿《さ》した仇《あだ》な姿を、まざまざ目に浮かべながら、ちょっと見当もつきかねるのが、牴《もど》かしくも歯痒《はがゆ》くもあったが、この少女をそれ以上苦しめることは無駄であった。葉子がこの侍女を絶対安全な乾分《こぶん》に仕立てあげるのは、何の雑作《ぞうさ》もないことであった。
 子供とK――青年とが、夜更《よふ》けの街へ何か食べに出てから、庸三は半病人のように病床に横たわった。そして軟《やわ》らかいパンヤの蒲団《ふとん》のなかに独り体を埋《うず》めていると、疲れた頭脳も落ち着くのだし、衰えた神経の安めにもなるのであったが、彼にはこの醜陋《しゅうろう》な情痴の世界をこえて、もっと重要な不安があった。そうした場合、もしも創作意慾が旺《さか》んであり、ジャアナリズムの気受けがよかったら、彼の心意もそう沮喪《そそう》しなくても済むはずであった。
 庸三はいつごろまで仰向きになった目の上に「痴人の告白」を持ちこたえていたろうか、するうちに目蓋《まぶた》が重くなって電燈を薄闇《うすぐら》くして睡《ねむ》った。
 すると部屋が白々としたころになって、誰かが彼のベッドの端へ来て坐る膝《ひざ》の重さを感じてほっと目がさめたと思うと、面窶《おもやつ》れのした葉子が上から彼を覗《のぞ》いていることに気がついた。
「御免なさいね。――私昨夜こんなに書いたのよ。」
 葉子はそう言って、原稿紙|挟《ばさ》みから十枚余りの原稿を出して、ぺらぺらと繰っていたが、疲れきった体に、感傷的な哀憐《あいれん》の刺戟《しげき》を感じたものらしく、まだ全く眠りからさめきらない庸三の体を揺り動かした。

 するうちある夜またしても葉子の姿を見失ってしまった。庸三も朧《おぼ》ろげに感じている相手が誰であるかを、今なおはっきり突き留めたい好奇心に駆られた。彼女の患部にメスを揮《ふる》った博士《はかせ》がまず彼の興味を刺戟したが、その他にも踊りの師匠の愛人、それから例の雑誌記者などにも疑惑は動いた。しかし何といっても、普通一般の思議を許さないあたりにも勤めている、優《すぐ》れた手腕と人格の持主である博士の生活に、ある新しい刺戟を感じているらしいことは、時々の彼女の口吻《くちぶり》でも解るのであった。そうした地位の高い博士の愛を獲得することも、今まで気むずかしい芸術家ばかりを相手にしていた彼女にとっては、何か朗らかな悦《よろこ》びでなくてはならなかった。もしひょっとして博士が新しいペトロンの役割を演じてくれでもするとしたら、なおさらのことであった。
「また葉子がいなくなったよ。」
 庸三は小夜子に報告した。密会や何かのことに、いろいろな場合の体験ももっているに違いない小夜子であった。
 彼女はちょうど風呂《ふろ》から上がって、お化粧をすまして帳場に坐っていた。
「あの方どうしてそんなことなさるんでしょうね。先生というものがありながら。」
 小夜子は帳場に立てかけた鏡のなかに見惚《みと》れながら言った。
「先生を好きなんでしょう。」
「まあ……たまにはね。」
「いつからですの? 何とも言い置きもなさらないんですの。」
「昨夜かららしいね。」
 そして博士のことを話すと、小夜子はにわかに興味を持ち出して来た。
「じゃあ秘密|探偵《たんてい》に頼んでみたらどうです。」
 小夜子にもちょっと悪戯者《いたずらもの》らしいところがあった。
「そうね。」
 庸三は憂鬱《ゆううつ》になったが、こういう場合一つ掘り下げはじめると、際限なく下へ下へと掘り下げてしまって、どうにも足悶《あが》きのないのが、彼の性癖であった。そしてその刺戟と苦しみを彼にはだんだん享楽するように慣らされてしまうのだった。
「先生これから日本橋のI探偵社に行ってみません?」
「君も行く?」
「え。でも、ちょっと電話をかけてみましょう。」
 小夜子は卓上電話の受話機を取った。そして探偵社と約束すると、ガレイジへも電話をかけた。
 やがて絵羽の羽織を引っかけ、仏蘭西天鵞絨《フランスビロード》のコオトに黒の狐《きつね》の衿巻《えりまき》を肩に垂れた小夜子とハイヤアのクションに納まったが、庸三は何だか進まないような気がした。と言って小夜子のこの行動にも別に意志があるわけでもなかった。少《わか》いおりに悪気《わるげ》のない不良少女団長であった彼女の、子供らしい思い附きにすぎないのであった。
 自動車を還《かえ》して、二人で探偵社の薄闇《うすぐら》い応接室へ入って行ったが、しばらく待たされている間に小夜子は思いついたように、
「私何だか五反田の××閣あたりのような気がしますね。」
「××閣? それは何さ。」
「震災後できた大きな料理屋ですの、連れ込みのね……あすこに籠《こ》もっていれば絶対安全ですからさ。」
 庸三はそんなことに暗かったが、葉子も実はそういろいろな世界を知っているわけでもなかった。しかし確信あるらしく小夜子にそう言われると、葉子と博士がそこへ乗り込んで行ったもののように思えても来た。
 小夜子はそわそわしていたが、試《ため》しに××閣へ電話をかけてみようと言うので、あたふた廊下へ出て行って、受話機をはずした。庸三も傍《そば》に立っていた。
「もしもし、貴方《あなた》のところに梢さんという女の方行っているはずですが……」
 先方から女中の声が聞こえた。
 小夜子はちょっと受話機の一方を手で塞《ふさ》いで、
「図星らしいわ。」
 と茶目ぶりな目を丸くしたが、再び電話口に現われた女中の返事では、やはりいないらしかった。
「初めいるような返事だったんですよ。梢さんなんて名前そうざらにあるはずじゃないんですもの。無駄だと思ってドライブしてみません?」
「そうね。」
 街《まち》は電燈の世界になっていた。二人は何か引込みのつかないような気持で、酔興にもさらに料金を約束してタキシイを駆った。いつになく小夜子は興奮していたが、庸三もこの機会にそんな家も見ておきたかった。
「どうせ飯でも食うつもりなら……。」
「そうよ。」と小夜子は少し間をおいてから、
「でも私あすこ駄目なのよ。」
「ああ、そう。」
「私|麹町《こうじまち》の屋敷にいる時分、病気で一月の余もあすこにいたことがあるんですの。そこへある人が来て寝そべっているところへ、突然やって来たものなんですの。女中がそのことをしらせに、ばたばたとやって来たもんですから、彼は大狼狽《だいろうばい》で、洋服を引っ抱えたまま庭へ飛び降りたのはよかったけれど、肝腎《かんじん》の帽子が床の間に置き忘れてあるじゃありませんか。」
「ある人とは?」
 小夜子は独逸《ドイツ》の貴族の屋敷に、老母もろとも同棲《どうせい》することになってから、かつては幾年かのあいだ、一緒に世帯《しょたい》をもったことのあるその男の名前や身分を、庸三に語るだけの興味すらすでに失っていた。
 話しているうちに五反田へ着いた。そして長々と生垣《いけがき》を結い繞《めぐ》らした、木立の陰のふかい××閣の大門の少し手前のところで、小夜子は車を止めさせ、運転士をやって訊《き》かせてみたが、そういう方はまだ見えていないというのであった。それと同時に、ぱっとヘッドライトの明りが差して、一台の自動車が門から出て来てこっちへカアブして来た。そのルウム・ライトの光の下に、野暮くさい束髪頭の黒羅紗《くろラシャ》のコオトに裹《くる》まって、天鵞絨《ビロード》の肩掛けをした、四十二三のでぶでぶした婦人の赭《あか》ら顔が照らし出されていたが、細面《ほそおも》の、ちょっときりりとした顔立ちの洋服の紳士が、俛《うつむ》きながら煙草《たばこ》にマッチを摺《す》りつけていた。庸三は何か胸糞《むなくそ》の悪いような感じで、この家の気分もおよそ解《わか》るような気がした。今まで庸三は、あの風采《ふうさい》の立派な博士の傍《そば》で、わざと原稿など書いて見せて、あるいは得意そうに読んでみせたりして、無邪気に女流作家の矜《ほこ》りを誇示しようとしている、葉子の顔や様子を、その一つの部屋のなかに幻想していたのだったが、それもあえなく形を消してしまった。
「こういう時は、こうでもしないとこの先生の気持はおさまらない。」
 小夜子がそう言っているように思えた。
 やがて二人は憑《つ》いていた狐《きつね》が落ちたような気持で、帰路に就《つ》いた。
「莫迦《ばか》らしい、十二円損してしまいましたね。」
 川ぞいの家の門の前で自動車をおりる時、小夜子はそう言って笑った。
 するとその夜おそく、庸三がK――青年と子供をつれて、春らしく媚《なま》めいた空の星を眺めながら、埃《ほこり》のしずまった通りを歩いたついでに、ふと例の旅館の重い戸を開けて、白い幕の陰にいた女中にきいてみると、梢さんがいるというのであった。
「もうお寝《やす》みになっていますけれど……。」
 それを聞きすてて、三人でどかどか上がって行った。
 果して葉子は寝床に横たわっていた。髪に綺麗《きれい》なウエイブがかかっていて、顔も寝る前に化粧したらしく、少し濃いめの白粉《おしろい》に冷たく塗られて、どんな夢を見ようとするのか、少しの翳《かざ》しも止《とど》めない晴々しい麗しさであった。彼女は紅《あか》い紋綸子《もんりんず》の長襦袢《ながじゅばん》を着ていた。
 庸三は何か荒々しく罵《ののし》って、いきなり頭と顔を三つ四つ打ってしまった。
 葉子の黒い目がぽかりとしていた。
「私頭が大事よ。食って行かなきゃならないのよ。」
「何だ、そんな頭の一つ二つ。」
 そして傍で呆《あき》れている若い人たちと一緒に引きあげようとした。
「ちょっと。」
 寝ながらの葉子の声がした。庸三は瞬間後へ引き戻された。看《み》ると葉子の表情がにわかに釈《ほぐ》れて、融《と》けるような媚笑《びしょう》が浮かんで来た。
「先生はいてよ。」
 白い手が差し延べられた。場合が場合なので、彼も今夜は彼女の魅惑《みわく》には克《か》つ由もなかった。

      十五

 退院後の葉子の健康は、しかしそのころまだ十分というわけには行かなかった。そしてそういうことがあってから後も、どうかすると熱発を感じたが、外科ではあるが、K――博士《はかせ》のくれる粉薬《こなぐすり》は、ぴったり彼女の性に合っていると見えて、いつも手提《てさげ》のなかに用意していたくらいだったので、少し暖かいところへ出てみたいと思っていた。庸三はちょうど新聞を書いていたから、一緒に行くのに都合がよかった。葉子も別に独りで行きたそうにも見えなかった。それに旅行というほどのことでもなかった。つい無思慮な二人の間の因縁の結ばれた郊外の質素なホテルで、余寒の苛々《いらいら》しい幾日かを過ごそうというだけのことであった。
 けれどホテルへ乗りつけた時、葉子は決して楽しい気分で、部屋へ落ち着いたとは思えなかったが、サンルウムのような広いベランダを東と西に持ったサルンの煖炉《だんろ》には、いつも赤々と石炭が燃やされ、部屋にもスチイムが通っていて、朝々の庭に霜柱のきらきらする外の寒さもしらずに、読んだり書いたりすることができた。それに日曜を除いては昼間は人気《ひとけ》も少なかったが、夜分になると、勤め先きから帰って来る男女の若い外人が、一杯サルンに集まって来て、そう喧《やかま》しくない程度で、楽しげな談笑をつづけて
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