感冒にかかって床に就《つ》くのが例になっていたが、どうした訳かその年はそんなこともなく、世間の非難や文学的な悩みはありながら、とにかく彼女に紛れてうかうかと日を送っていた。
 葉子は二日おきぐらいに、病院へ行くと言っては出て行ったが、時には関係の婦人雑誌の編輯室《へんしゅうしつ》をも訪れた。若い記者たちと銀座でお茶を呑《の》んで来ることもあれば、晩飯の御馳走《ごちそう》になることもあった。
「今日は××さんに御飯御馳走になって、和泉《いずみ》式部の話聞いて来たわ。」
 葉子は聞いて来たことを、また庸三に話して聞かせるのだったが、書きはじめた時分から、ちょいちょい原稿のことで訪れて来た若い記者は、今でも時々やって来た。葉子は締切りが迫って来ると、下宿の部屋からも姿を消して、近くにある静かな旅館の一室に立て籠《こ》もることもあったが、ある時などは、どこを捜しても見つからないこともあった。庸三は気の許せないような彼女が、今はどんなに懐《なつ》いて愛し合っているように見えていても、いつどこへ逃げて行くかわからないという不安は絶えずもっていた。
「東京というところは、居つけてみればみるほど広いのね。もしも先生がふと姿を消すようなことがあるとしても、とても捜し出せやしないでしょうね。」
 葉子はいつかそんなことを口にしていたが、それは自分が逃げる時のことを考えてのことなのはもちろんであったが、一度失敗もしているので、この年取った男にかかっては、迂濶なこともできないとかねがね用心しているに違いなかった。しかし庸三は彼女が下宿にも旅館にもいないとなると、旅館で書いている間、来てはいけないと言われていることと照らし合わせて、彼女の態度が癪《しゃく》に障《さわ》っていた。いつから旅館をあけているのか、それも解《わか》らなかった。ずっと部屋に籠もって勉強しているのか、それとも時には創作慾の刺戟《しげき》を求めにシネマ・パレイスや武蔵野館《むさしのかん》へ行くとか、蓄音器を聞きながら、お茶を呑《の》みに喫茶店へ入ったりして感興を唆《そそ》とうとしているのか。それくらいはいいとしても、誰か若い異性を部屋へ連れこんでいるのではないかという気もしたのだった。そういう時は彼も心のやり場を求めて、川ぞいの家へ遊びに行くのが習慣になっていた。小夜子はかつての失敗に懲りて、ふっつり盃《さかずき》を口にしなくなっていた。それどころか、彼女はずっとその前から牛や鶏の肉をも断っていた。お茶も呑まないことにしていた。それが単に花柳界に棲《す》む女たちのあいだにはやるちょっとした迷信的な洒落《しゃれ》のようなものか、それとももっと深い動機に基づいた贖罪的《しょくざいてき》なものか、花柳界の女たちよりか新らしく、一般的のモダアン・ガアルよりも古いところのある小夜子だとしても、酒をぴったり口にしなくなったことは、どこか心の奥にしっかりした錠の卸されてある証拠だと思うよりほかなかった。
 小夜子の家《うち》は相変らず盛《さか》っていた。綺麗《きれい》にお化粧した彼女は、帳場に坐って芸者屋へ電話をかけたり、酒のお燗《かん》をしたりしていたが、客の特別の誂《あつら》えだといって、ウイスキイを註文《ちゅうもん》したりしていた。世間はまだそう行き詰まってはいなかった。世界戦争景気の余波がまだどこかに残っていて、人々は震災後の市の復興にみんな立ちあがっていた。金座通りや浜町公園もすでに形が整っていたし、思い切り大規模の清洲橋《きよすばし》も完成していた。それにもかかわらずこの辺一帯の地の利もすでに悪くなって、真砂座《まさござ》のあった時分の下町|情緒《じょうしょ》も影を潜め、水上の交通が頻繁《ひんぱん》になった割に、だだ広くなった幹線道路はどこも薄暗かった。しかし環境の寂しい割りに小夜子の家はいつも賑《にぎ》やかであった。花柳界離れのした彼女のマダムぶりに、原稿紙やパレットに親しんでいるような人たちが、繋《つな》がり合ってどかどか集まって来た。
 小夜子はあまりお馴染《なじみ》でもない座敷だと、少しサアビスをしてから、息ぬきに銀座辺へタキシイを飛ばすこともまれではなかった。庸三は時々銀座|界隈《かいわい》で、いくらか知っている顔も見えるような家へ彼女をつれて行ったが、その中にはでくでく肥《ふと》った断髪のマダムのやっているバアなどもあった。そこは銀座裏の小ぢんまりした店で、間接に来る照明が淡蒼《うすあお》い光を漂わし、クションに腰かけて、アルコオル分の少ないカクテルを一杯作ってもらって、ちびちび嘗《な》めていると、自然に神経の萎《な》え鎮《しず》まるような気分のバアであった。彼女はよほど以前に汽車のなかで、誰とかから庸三に紹介されたことがあると言っていたが、彼女の過去の閲歴や身分も嗅《か》ぎ出そうとしても、そんな問題には皆目触れることができなかった。もちろん庸三は小夜子からも、ほんの梗概《こうがい》だけしか解っていない過去を嗅ぎ出そうとして、油断なく神経を働かしているのだったが、過去どころか、現在の彼女の生活の裏さえ全く未知の世界であった。庸三にはとかく人に興味を持ちすぎる悪い習慣もあった。
 そのころ銀座では、あまり趣味のよくない大規模のカフエが熾《さか》んに進出しはじめて、あの辺一帯の空気をあくどい色に塗りあげ、弱い神経の庸三などは、その強烈な刺戟に目が眩《くら》むほどだったが、高声機にかかったジャズの騒音も到《いた》るところ耳を聾《つんぼ》にした。ナンバワン級の女給の噂《うわさ》などが娯楽雑誌や新聞を賑《にぎ》わせ、何か花々しい近代色が懐《ふとこ》ろの暖かい連中を泳がせていた。小夜子のところへ雪崩《なだ》れこんで来るのも、時にはそういった連中の一部であったが、庸三も仲間の人たちと会か何かの崩れに、たまにはそういう新らしい享楽の世界へ入ることはあっても、カクテル一杯を呑むのに骨が折れるくらいなのに、性格的な孤独性と時代の距離があるので、いつも戸惑いしたような感じしかなかった。すべてそういった享楽の世界では、彼はいつもピエロの寂しい姿を自身に見出《みいだ》すだけであった。肥ったマダムの家だけは、ほどよく静かに酒を呑んでいる、インテリ階級の少数の人と顔が合うだけだったので、銀ぶらには適当であったが、彼はそうたびたび川沿いの家へ足を運ぶことを、葉子に感づかれて、痛くもない腹を探ぐられるのもいやだったし、そうやって彷徨《さまよ》っていても、心の落着きはどこにも求められなかった。
 書斎に帰っていると、門の開く音がして、続いて玄関の硝子戸《ガラスど》の開く音がした。庸三は、ちょうど子供を相手に、葉子の噂をしているところだったが、そこへ彼女が割り込んで来て、部屋がにわかに賑やかになった。葉子は今日も病院へ行って、入院中から懇意になった若い医員の二三の人たちと、神田まで食事をしに行って、やがてその連中と別れてから、シネマ・パレスで「闇《やみ》の光」の映画を見て来たというのだった。見ようによっては何か怪しい興奮と疲労の迹《あと》かとも思われないこともないような紅潮が顔に差していたが、芸術の前にはとかく感激しやすい彼女のことなので、それは真実かも知れないのであった。
「K――博士《はかせ》も一緒?」
 庸三は葉子の手術のメスの冴《さ》えを見せたあの紳士のことを訊《き》いてみた。
「ううん、K――さん行かない。」
 葉子は首をふった。
「あの人たちみんな罪がなくて面白いのよ。作家の人たちとまるで気分が違うわよ。」
 子供と葉子のあいだに文学談が初まり、ジャアナリズムの表面へは出ない仲間の噂《うわさ》も出た。これからの文学を嗅《か》ぎ出そうとしている葉子は、しきりに興味を唆《そそ》っていたが、彼の口にする青年学徒のなかには、すでに左傾的な思想に走っている者もあって、既成文壇を攻撃するその熱情的な理論には、彼も尊敬を払っているらしかった。
「それにあいつは素敵な好男子さ。」
 葉子はそういう噂を聞かされるだけでも、ちょっと耳が熱して来るほどの恋愛空想家であったが、そのころはまだそんなに勢力をもつに至らなかったマルクス青年の、それが相当新鮮なものであったので、何か颯爽《さっそう》たる風雲児が庸三にも想見されたと同時に、葉子がいつかその青年と相見る機会が来るような予感がしないでもなかった。庸三は心ひそかに少しばかりの狼狽《ろうばい》を感じないわけに行かなかったが、それが葉子にふさわしい相手らしいという感じもした。そして何か事件の起こるかも知れない時の自身の取るべき態度をも、その瞬間ちょっと想像してみたりした。
「何か食べに行かない?」
 庸三は言い出した。
「私みつ豆食べたい。食べましょう。」
 やがて三人|繋《つな》がって外へ出た。

 すると温かい宵《よい》のこと、再び葉子が下宿から姿を消した。
 出て行くその姿を、電車通りの角のフルウツ・パアラにいる長男の庸太郎がちらりと見た。
「どうもそうらしいんだ。黒い羽織を着て雨傘《あまがさ》を差して、手に包みか何かもっているらしかった。原稿書きに行ったんかもしれない。」
 彼は話した。
 そのちょっと前に、今いつもの婦人雑誌記者と、自動車をおりて葉子が例の旅館へ入って行くところを、ふと通りがかりに見たといって、庸太郎がそれとなく報告するので、わざとしばらく近よらないようにしていた庸三が行ってみると、もうその時はその若い記者も帰ったあとで、葉子は夕刊を見ながらオレンジを食べていた。そして庸三の入って来るのを看《み》て、好い顔をしなかった。
 庸三の詰問に対する葉子の答えでは、彼女は記者をさそって、行きつけの支那料理屋で、晩飯を御馳走《ごちそう》しただけだというのだった。記者が葉子の讃美者であるだけに、庸三はちょっと疑念をもった。
「だってああいう人たちには、私などはたまにそういうことをしておく必要があるのよ。私原稿料の前借だってしているのよ。」
 庸三はそれもそうかと思って、口を噤《つぐ》んでしまったのだが、その晩もちょっとその辺を散歩するつもりで、二人で旅館を出ると、わざと大通りを避けて区劃《くかく》整理後すっかり様子のかわった新花町あたりの新しい町を歩いた。そして天神の裏坂下から、広小路近くのお馴染《なじみ》の菓子屋が出している、汁粉屋《しるこや》へも入ってみた。よく彼の書斎に現われる、英文学に精《くわ》しい青年の兄の経営している、ちょっと風がわりの店であった。
 そしてそうやって歩いていると、いつかまた別れる潮を見失って、彼は葉子の部屋で一夜を明かすのであった。
 庸太郎と今一人、最近の英文学に興味をもっているその青年H――と一緒に、庸三の全集刊行の運動をしようとか何とか言って、葉子がまだ近所に一軒|世帯《しょたい》をもちたての時分、いきなり訪問して来て以来、まるで内輪の人のようになって、今は何かに不自由がちな庸三の家政上のことに働いてくれる青年K――も、ちょうど庸三の部屋へ来ていて、少し顔色をかえながら下宿と旅館へ葉子を捜しに行ったのだったが、どこにも見えなかった。
 やがてK――青年は、下宿に留守居をしている葉子の小間使のお八重を、庸三の部屋へつれて来た。去年の夏、子供たちについて、葉子の郷里から上京して来たお八重は顔容《かおかたち》もよく調《ととの》って、ふくよかな肉体もほどよく均齊《きんせい》の取れた、まだ十八の素朴《そぼく》な娘だったので、庸三のところへ来る若い人たちのあいだに時々噂に上るのであったが、今庸三の前へつれられて来ると、ひどく困惑して、どこか腹の据《す》わったようなふうで、顔を紅《あか》くして居ずまっていた。
「葉子さんどこへ行ったの? 八重ちゃん知ってるんだろう。」
 K――青年は気軽に訊《き》いてみた。そして二三度|詰《な》じってみても彼女は迷惑そうに笑っているだけで、何とも答えなかった。そしてその態度で見ると、庸三の部屋で感ずることのできないような、下宿の部屋でのいろいろの事件を、あまりに知りすぎているので、そんな質
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