かなり離れた場所で、骨董品《こっとうひん》を並べていた。手のもげかかった仏像、傷ものの陶磁器、エキゾチックな水甕《みずがめ》や花瓶《かびん》、刀剣や鍔《つば》や更紗《さらさ》の珍らしい裂《きれ》なども集めていた。芸術家同志の恋愛で、かつて三年ばかり結婚生活を営んでいた妻の女流作家と別れて、今の妻と同棲《どうせい》してからかなりの月日がたっていたが、どうかすると思わぬ時に、その作品を新聞の上に見ることもあった。新しい恋人を追って、アメリカへ渡って行った、その女流作家の消息も、すでに絶えがちであった。
彼はいつでも恋愛讃美者であったが、いつか庸三は小さい娘の咲子や瑠美子をつれて、葉子と一緒に上野辺を散歩している時に、ふとしばらくぶりで彼に出会ったのであったが、今彼はその時の葉子の印象を、彼流に率直に話すのだった。しばらく町なかの下宿に隠しておいた、純白な一少女との自身の恋愛告白に、しばし庸三も耳を傾けたが、その後で一緒に病室を見舞うことになった。
「あの時広小路で僕はふとあの人の姿が、目についたんだ。身装《みなり》もじみだしちっとも修飾しちゃいないんだけれど、何か仄《ほの》かに匂ってくるような雰囲気《ふんいき》があってね、はてなと思ってその瞬間足を止めて見ていると、やがて傍《そば》にいる君に気がついたんだ。」
山村は話した。今まで庸三の耳に入り、目に映る葉子の批評は、どれも葉子を汚らわしい女として辱《はずか》しめるようなものばかりであったが、それは正直にそうとばかり取れないようなものであった。中には、庸三がもっている場合だけの彼女に当て篏《は》まるような種類のものも無くはなかった。もちろん容貌《ようぼう》と淑徳とは別であったが、過去は過去として、後に葉子が仕出来《しでか》したさまざまの事件にぶつかるまでは、庸三の魂もその若い肉体美の発散に全く酔いしれていた。
病院はひっそりとしていた。「文学病患者と書いてある」と庸太郎がふざけたという、病名の記された黒板のかかっている壁の方をむいて、葉子は断髪の黒髪をふさふさ枕《まくら》に垂らして、赤と黒と棒縞《ぼうじま》のお召の寝衣《ねまき》を着たまま、何か本を手にしたまま睡《ねむ》っていたのだが、やがてこっちを向き直った。
「山村さん。」
庸三は言うと、葉子は額にかかる髪を掻《か》き揚げながら、
「御免なさい、こんな風して。」
黒い髪の陰に濡《ぬ》れ色をした大きい目を見ながら、庸三は多分隔日くらいにガアゼを取り替えに来て、ずうと子供の時から知ってでもいた人のように、何かと甘えた口の利き方をする葉子に、揶揄《からか》い半分応酬しているであろうK――博士《はかせ》のことが心に浮かんだ。
「先生今お忙しい?」
「いや格別。」
「先生という人薄情な人ね。」
葉子の顔は嶮《けわ》しくなった。
「どうして?」
「いいわ。先生の生活は先生の生活なんですから。」
庸三も疳《かん》にさわったが、黙っていた。
「女が病院へでも入ってる場合には、男ってものはたまにお金くらい持って来るものよ。」
「金が必要だというんだね。」
「決まってるじゃないの。」
葉子があまり刺々《とげとげ》しい口を利くので、負《ひ》け目《め》を感じていた庸三は、神経にぴりっと来た。
ちょうどそのころ彼女は、彼女の態度に失望して帰って行った秋本から、長い手紙を受け取っていた。今まで気儘《きまま》にふるまっていた、彼女の月々の生活費の仕送りも、事によると途絶えるかも知れないのであった。彼女は気を腐らしていた。そこへ何も知らない庸三が初めて友達と一緒に現われた。鬱憤《うっぷん》が爆発してしまった。
庸三は二度と彼女を見舞わない腹で、棄《す》て白《ぜりふ》をのこして病室を出た。彼は手術当時の彼女の態度にすっかり厭気《いやけ》が差していた。彼女を憎んでもいた。
「あいつは何か始終たくらんでいる女なんだ。」
庸三は途々《みちみち》山村に話した。
「うむ、そうだ。ちょっと剣があるんだ。」
二三日してから、庸三はそれでも印税の前借りの札束を懐《ふとこ》ろにして、再び病室を訪れた。彼はほかのことはともあれ、別れた場合金のことで葉子側の人たちからかれこれ非難されることを恐れた。それにもし書く場合があるとしたら……彼はそこまで考えていた。表面葉子は八方から非難の矢を浴びせられていたとは言え、非難する人たちのなかにも、葉子に関心をもつものの少なくないことも庸三に解《わか》っていた。
厚ぼったい束が、彼の懐ろから葉子の手に渡された。彼女はべらべらとそれをめくっていたが、二十枚も取ると、剰余《あと》をそっくり庸三に返した。
「すみません。」
「どうしまして。」
庸三は病院中の噂《うわさ》になることを恐れていたし、また何か初まっていそうに思えたので、じきに病室を出た。
葉子が退院して来たのは、手術の日から四十日も経《た》ってからであった。もう二月の初めだったが、その間に彼女の二番目の女の子が感冒にかかって、肺炎になり損《そこな》い、それがやっとのことで癒《なお》ったかと思うと、今度は庸三の家《うち》で咲子が病床に就《つ》いていた。
庸三はその後も二度ばかり、夜になってから病室を見舞ったのであったが、二度とも好い印象を受けなかった。一度は師匠にあずけてある瑠美子の春着を作るために、デパアトの外廻りの店員を呼び寄せて、派手な友禅ものを、部屋一杯にひろげていたし、一度はベッドの上から手拍子を取って、いつもの童謡を謳《うた》いながら、瑠美子を踊らせていた。看護婦や宿直の若い医員だちを呼び集めて、陽気に騒いでいるのだったが、葉子は長い袖《そで》を牀《ゆか》まで垂らして、熔《と》けるような声で謳っていた。
庸三はどこでもそんなふうにしなければ治まらないらしい彼女を、苦々しく思わないわけに行かなかったが、それを言う日になれば、能弁な彼女の弁解も聴《き》かなければならなかった。
しかし退院して来てからの葉子には、そんな浮わついた気分はまるで無くなっていた。それに痍《きず》もまだ充分ではなかった。
「当分通わなきゃならないのよ。」
彼女は畳や木の香の高い彼の部屋へ、そっとやって来て、そんなことを言っていた。
「結核じゃないか。」
「それも幾らかあるらしいわ。沃度剤《ヨードざい》も買わせられたの。」
そしてその後で、葉子は病院で受け取った秋本の手紙を帯の間から出して、
「せっかく行ったのに、予期に反して、私が飛びついてもくれなかったといって怒っているの。今まで月々送ったお金の計算もしてあるの。もうすっかり人生がいやになったから、これから漂浪《さすらい》の旅に上る、というようなことも書いてある。」
そう言って長さ四五尺もある手紙を繰り拡《ひろ》げて見せた。庸三はちょっと手に取って見た。熱情の溢《あふ》れたような文字が、彼の目に痛く刺さるので、ろくに読む気にもなれなかった。秋本について今まで葉子の言っていたことは、すべて嘘《うそ》でないことが、初めて確かめられた。葉子に猜疑《さいぎ》の目を向けていたのが、すまないような気がした。秋本に対しても彼も同罪だと観念した。
「金をくれる人がなくなって、困ったもんだな。」
葉子は立てた長い両膝《りょうひざ》を手でかかえながら、呟《つぶや》いた。
「また先生のとこへ来ようかな。子供をお母さんに預けて、田舎《いなか》へ還《かえ》して……。」
「来てもいいよ。」
庸三は答えた。また何か起こるに違いない、――彼はそれも思わないわけにはいかなかったが、差し当たりそうするよりほかなかった。毒気のない態度も感じが悪くなかった。
しかし葉子は前よりも、少し用心深かった。庸三の部屋へ入って来るにしても、朝から晩まで彼の傍《そば》に居きりにすることは、何かと不便であった。まだ本統には見切りをつけていない秋本との交渉を、自分が直接に開始する場合にも、田舎へ還った母を通しての間接の場合にも、庸三に打ち明けられないことも出て来るに違いなかった。それでなくても息をぬく場所が、どこかに無くてはならなかった。そんな場合の用心に、葉子は隣りの下宿に一と部屋取っておくことにして、荷物をそっくり裏の家へ運びこんで来た。例の箪笥《たんす》と鏡台が庸三の部屋へ持ち込まれて、化粧品の香がその日から仄《ほの》かに部屋に漂った。
十四
葉子はそのころになっても、なお婦人雑誌の連載物を書きつづけていたが、初めの意気込みほど人気は湧《わ》き立たなかった。もともと雑誌の方では、とかく世間の問題をおこしがちな彼女の過去現在の、好いにつけ悪いにつけ、何か花やかな雰囲気《ふんいき》を周囲に投げつつあるところに、ジャアナリステックな価値を見出《みいだ》そうとしたものであったが、一回二回と書かしてみると、思ったよりも好いので、一層|力瘤《ちからこぶ》を入れることにはなったが、庸三と取り組んでの恋愛事件がひどく世間の感情を害していた最中でもあったので、情熱的な彼女の作品も大向うから声はかからなかった。もちろん淡い夢のような作品その物にも、彼女独得の情熱と情緒《じょうしょ》がいかに溢《あふ》れていたにしても、一般に受ける性質のものではなかった。ちょうど社会批評家としてすでに一地歩を占めている、ある婦人の作品と並んでいたが、葉子はそれを自分の作品と読み比べてみて、何となく厭味《いやみ》で古いと思っていたし、少しは悪くも言ってみたいこともあった。
無精な庸三のことなので、その作品に関して時々話をしかけられても、読んだのは一回きりで、解《わか》らないところを「これはどういうんだ」と訊《き》いてみたりして、彼女の説明に微笑するくらいのことで、文学の質も立場も違うところから、格別注意を与えようともしなかった。短篇となると、彼女は恭《うやうや》しく彼の前に坐って、師弟の礼儀というようなものを崩さず、目を通してもらうことを哀願した。そして読みおわってから庸三が二三批評の言葉を口にすると、彼女は「どうもすみません」と言って、嬉《うれ》しそうにお辞儀をするのであった。庸三は自分の作風を模倣でもしたら、その人は大変損をするに違いないと考えていたし、教えらるるところがあろうとは思えなかった。でも彼女に才能がないわけではなかった。もっと骨格をつければ暢《の》びて行くだろうとは考えていたので、それにはいくらか自身のレアレズムの畑へ引き込んでみるのも悪くはあるまいと思っていた。恋愛も恋愛だが、葉子の建前からいえば、文学修行と世の中へ押し出してもらうことが彼女のかねがねの願いなので、彼の文壇的名声が一朝失墜したとなれば、恋愛の焔《ほのお》もその瞬間消えてしまうのも当然だったが、作品の反響もこのごろ思わしくないのに、秋本の消息も途絶えて、せっかく捜しに行ってみても、どこに潜《もぐ》っているかさえ解らなかったので、そんなこんなで葉子もすっかり気を腐らしていた。
しかし秋本の問題に、未練らしくいつまでもこだわっている葉子でもなかった。彼をそうした絶望に逐《お》いやったことも可哀《かわい》そうに思えたし、好い金の蔓《つる》を見失ったことも残念だったので、なおいくらかの自信と希望を失わないながらに、何か落し物でもしたような心寂しさを感じていた。
するうちに春が訪ずれて来た。大きな石が積み重ねられ、植木が片寄せられたままになっている庸三の狭い庭にも、餌《えさ》を猟《と》りに来て、枝から枝を潜《くぐ》っている鶯《うぐいす》の軽捷《けいしょう》な姿が見られ、肌にとげとげしい余寒の風が吹いていた。庸三の好きな菜の花が机の上の一輪|挿《ざ》しに挿されるころになると、葉子の蒼《あお》かった顔にもいくらか生気が出て来て、睫毛《まつげ》の陰に潤《うる》んでいた目にも張りが出て来た。名伏しがたい仄かな魅力を潜めている、頬《ほお》から顎《あご》のあたりにも、脹《ふく》らみが取り戻されて来た。どうにか用心ぶかく冬を凌《しの》いで来た庸三も、毎年このころになると、弱い気管の方にこびり着きやすい
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