りとしか思えなかったが、小夜子はそういうことについては、一切口を割らなかった。彼女は七年間の独逸《ドイツ》貴族との同棲《どうせい》のあいだに、あまり身に染まなかった花柳気分からだんだん脱けて、町の商人にも気分が合わなくなっていた。今ごろ髪を七三などに結って、下卑《げび》た笑談口《じょうだんぐち》などきいて反《そ》っくりかえっているそこらのお神なぞも、鼻持ちのならないものであった。今では雑誌や新聞のうえで、遠いところにのみ眺めていた文壇の人たちと膝《ひざ》を附き合わせて、猪口《ちょく》の遣《や》り取りしたり花を引いたりして、気取りも打算もない彼らと友達附き合いのできるのも面白かったし、地位や名前のある婦人たちの遊びに来るのも、感じがよかった。
庸三は十一月ごろ一度葉子をここへつれて来たことがあった。葉子が結婚生活の破局以来、今は遠くなってしまったあの画家との恋愛の初め、一夜を過ごしたことのある水辺の家のことを、折にふれて口へ出すので、それより大分川下になっている小夜子の家を見せがてら、彼女を紹介しようと思ったのであった。それは震災後山の手へ引っ越していたある料亭《りょうてい》である晩二人で飯を喰《く》っての帰りに、興味的に庸三が言い出したのであった。彼は生活負担の多い老年の自分と若い葉子との、こうした関係が永く続く場合を考えてみて、目が晦《くら》むような感じだったが、いつかは彼女を見失ってしまうであろう時のことを考えるのも憂鬱《ゆううつ》であった。もう今では――あるいは最初から小夜子が自分のものになろうとは思えなかったし、そうする時の、いつも高い相場のついていた商売人《くろうと》あがりの彼女が、自分に背負《しょ》いきれるはずもないことも解《わか》っていながら、何かそういったものを頭脳《あたま》のなかに描いていないことには、葉子が遠く飛び去った時の、心のやり場がなかろうと、そうした気持も潜んでいたらしいのであったが、葉子を連れて行ったのは、ほんのその場の思い附きでしかなかった。大分前に小夜子と今一人小夜子の古い友達と三人で下の八畳で話しこんでいた時、葉子から電話がかかって来て、庸三はちょうど来たばかりのところだったので、電話へ出るのも気が進まなかった。このころ葉子の家は少し離れたところにあって、彼女は新調のジョゼットのワンピイスを着て、長女の瑠美子とよく外へ出たものであった。瑠美子のために、庸三が邪魔になることもしばしばであった。ある時などは、婦人文芸雑誌の編輯《へんしゅう》をしているF――氏の前で、はしなく二人の雰囲気《ふんいき》が険しくなり、庸三は帰って行くF――氏と一緒に玄関を降りぎわに烈しい言葉で彼女を罵《ののし》ったのだったが、そうして別れた後で、彼はやはり独りで苦しまなければならなかった。
その時も庸三の気持は、ちょっと葉子から遠くなっていた。彼は家政婦に出てもいいと言っているとかいう、小夜子の友達の一人の女の写真などを見ていた。家政婦といっても、双方よければ、それ以上に進んでもかまわないという意味も含まれているらしかった。
「写真より綺麗《きれい》ですよ。私の姉の田舎《いなか》で家柄もいいんです。いい家《うち》へ片づいていたんですけれど、御主人が商売に失敗して、家が離散してしまったんですの。」
小夜子は言っていたが、その女はしかし庸三の好みの型ではなかった。
そこへ葉子から電話がかかったのだったが、庸三は急いで帰る気もしなかった。
「先生があまり葉子さんに甘いからいけないのよ。うっちゃっときなさいよ。」
側にいた小夜子の別の友達が言うと、
「帰ってあげなさいよ。」
と小夜子は言うのであった。庸三はやがて小夜子の友達の女と一緒に乗って、白木の辺で彼女をおろして、葉子のところへ帰った。友達の女は、車のなかで鉛筆でノオトの片端に所と名前とを書いて、どうぞお遊びにと言って手渡した。
「ちょっといいから行ってみない?」
二人は食事をしまって、梨子《なし》を剥《む》いていた。
「行ってもいいけれど……行きましょう、水を見に。」
葉子は外《そ》らさず言ったが、真実《ほんとう》は気が進まなかった。
「何だかいやだな、そういう人。」
自動車に乗ってから、彼女は神経質になった。
「家を見るだけさ。」
「それならいいけれど。」
通された下座敷で、葉子は窓ぎわに立って水を見ていたが、彼女がここへ来るのに気が差したのは、あながち今までにもある意味の好い生活をして来たらしいマダムに逢《あ》うのが憂鬱だったばかりでなかった。小夜子の門と向き合って、そこにかなり立派なコンクリートの病院のあることと、その主《あるじ》が毎夜のように、小夜子の煩《うるさ》がるのも頓着《とんちゃく》なしにそっと入り浸っていることは前にも書いた通りだが、そこが学校を出たての葉子が、音楽学校入学志望で、かつてしばらく身を寄せていた処《ところ》であったということも、葉子を躊躇《ちゅうちょ》させたものに違いなかった。
小夜子の家では、いつもと違って、サアビスぶりはあまりよくなかった。そして今上がりぎわに、ちょっと薄暗い廊下のところでちらとその姿を見かけた小夜子が、盛装して二人の前に現われるのに、大分時間がかかった。二人は照れてしまったが、葉子は部屋の空虚を充《み》たすために、力《つと》めて話をしかけた。そこへ真白に塗った小夜子が、絵羽の羽織を着て嫻《しと》やかに入って来た。そして入口のところに坐った。
「梢《こずえ》さんでしょう。」
小夜子はそう言って、挨拶《あいさつ》すると、今夜は少しお寒いからと、窓の硝子戸《ガラスど》を閉めたりして、また入口の処にぴったり坐ったが、表情が硬《かた》かった。
葉子は立って行って、小夜子と脊比《せいくら》べをしたりして、親しみを示そうとしたが、いずれも気持が釈《と》かれずじまいであった。
「やっぱりそうかなあ。」
庸三は後悔した。するうち小夜子を呼びに来た。客が上がって来たらしかった。
「私今夜ここで書いてもいい?」
葉子は書く仕事を持っていることに、何か優越を感ずるらしく、庸三が頷《うなず》くと、じきに玄関口の電話へ出て行って、これも新調の絵羽の羽織や原稿紙などを、自動車で持って来るように、近所の下宿屋を通して女中に吩咐《いいつ》けた。
しかし間もなく錦紗《きんしゃ》の絞りの風呂敷包《ふろしきづつ》みが届いて、葉子がそのつもりで羽織を着て、独りで燥《はしゃ》ぎ気味になったところで、今夜ここで一泊したいからと女中を呼んで言い入れると、しばらくしてから、その女中がやって来て、
「今夜はおあいにくさまですわ。少し立て込んでいるんですのよ。」
庸三はその素気《そっけ》なさに葉子と顔を見合わした。やがて自動車を呼んで、そこを出てしまった。
「小夜子さん光一《ぴかいち》でなきゃ納まらないんだ。」
葉子は車のなかで言った。
ある夜も小夜子はひどく酒に酔っていた。
酒のうえでの話はよくわからなかったけれど、片々《きれぎれ》に口にするところから推測してみると、とっくに切れてしまったはずのクルベーが、新橋の一芸者を手懐《てなず》けたとか、遊んでいるとかいうようにも聞こえたし、寄越《よこ》すはずの金を、小夜子の掛引きでかクルベーの思い違いでか、いずれにしても彼の態度が気にくわぬので、押しかけて行って弾《はじ》き返されるのが癪《しゃく》だというように聞こえた。
クルベーはまだ十分小夜子に未練をもっていた。彼は今少し何とか景気を盛りかえすまで、麹町《こうじまち》の屋敷に止《とど》まっているように、くどく彼女に勧説《かんぜい》したのであったが、小夜子は七年間の不自然な生活も鼻についていた。クルベーのように、自分を愛してくれたものもなかったが、クルベーほど彼女のわがままを大目に見てくれたものもなかった。若い歌舞伎《かぶき》俳優と媾曳《あいびき》して夜おそく帰って来ると、彼はいつでもバルコニイへ出て、じっと待っているのだった。
「貴女《あなた》浮気して来ました。いけません。」
美しい大入道のクルベーはさすがに、顔を真赤にして怒っていた。
またある時は、病気にかこつけて、温泉場の旅館で、芳町時代から、関係の断続していた情人と逢《あ》っているところへ、いきなりクルベーに来られて、男が洋服を浚《さら》って、縁から転《ころ》がり落ちるようにして庭へ逃げたあとに、時計が遺《のこ》っていたりした。しかしクルベーは小夜子を憎まなかった。目に余るようなことさえしなければ、彼の目褄《めづま》を忍んでの、少しばかりの悪戯《いたずら》は大目に見ようと思っていた。彼はその一人|子息《むすこ》が、自転車で怪我《けが》をして死んでから、本国へ引き揚げる希望もなくなっていた。武器を支那《シナ》へ売りこもうとして失敗して以来、日本の軍部でも次第に独逸製品を拒むような機運が向いて来た。しかし小夜子が彼の屋敷を出たのには、切れても切れられない関係にあった、長いあいだの男の唆《そその》かしにも因《よ》るのであった。ようやくクールベから離れて来てみると、裏店《うらだな》へでも潜《くぐ》らない限り、その男とも一緒に行けないことも解《わか》って来た。
水ぎわの家《うち》を初めてからも、クルベーはそっとやって来て、この商売はやってもいいから、たまには逢うことにしようと言うのだったが、近所が煩《うる》さいし、人気商売だから、寄りついてくれても困ると言って、小夜子はぴったり断わった。――と小夜子はそういうふうに話していたが、まるきり縁が切れてしまったものとも思えなかった。
小夜子は今夜のように酔っていたこともなかったが、庸三も少し酔っていたので、何かの弾《はず》みで一緒に自動車に載せて家へつれて来た。小夜子が新らしい庸三の部屋へ入るのは、今夜に限ったことでもなかったが、葉子の留守宅の二階からすぐ見下ろされるような門を二人で入った時には、庸三も自身の気紛《きまぐ》れな行為に疑いが生じた。かつての庸三夫婦もお互いに牽制《けんせい》され合っているにすぎなかったとは言え、口を利かないものの力も、まるきり無いわけには行かなかった。
小夜子を奥へ通すと、ちょうど遊びに来ていた青年作家の一人と一緒に、長男の庸太郎も出て来て、面白そうに酔った小夜子を見ていた。小夜子は握り拳《こぶし》で紫檀《したん》の卓を叩《たた》きながら、廻らない舌で何か熱を吹いていた。
「私は三十三なんだ。」
と、それだけが庸三の耳にはっきり聴《き》き取れるだけで、何をきいても他哩《たわい》がなかった。
間もなく彼女はふらふらと立ちあがった。
「お前ちょっと送ってくれないか。」
庸三は子供に吩咐《いいつ》けたが、送って応接室まで出て行くと、小夜子はふと立ち停《ど》まって、誰という意識もなしに、発作的に庸三の口へ口を寄せて来た。やがて玄関へおりて行った。
四十分もすると庸太郎が帰って来た。
「面白いや、あの女。」
「どうした。」
「番町の独逸人の屋敷へ行くというから、一緒に乗りつけてみると、ドアがぴったり締まっているんだ。いくら呼び鈴を押しても、叩いても誰も出てこないもんだから、あの人|硝子戸《ガラスど》を叩き破ったのさ。出て来たのは立派な禿頭《はげあたま》の独逸人でね、暴《あば》れこもうとするのを突き出すのさ。そして僕の顔を見て、貴方《あなた》は紳士だから、この酔っぱらいを家まで連れて行ってくれ。こんなに遅く、戸を叩いたりして外聞が悪いからと言うもんだから、まあ宥《なだ》めて家まで送りとどけたんだけれど、自動車のなかで滅茶《めちゃ》苦茶にキスされちゃって……。手から血が流れるし、ハンケチで括《くく》ってやったけれど。いや、何か癪にさわったことがあるんですね。――それにしても、あの独逸人は綺麗《きれい》なお爺《じい》さんだな。」
庸三は黙って聞いていた。
ある日古い友達の山村が、ふと庸三の部屋へ現われた。作家であった山村は瀬戸物の愛翫癖《あいがんへき》があったところから、今は庸三の家から
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