じめ》なステップを踏んでいる、彼の勇ましい姿を群衆のなかに発見して、思わず微笑したものだった。
「どうです。運動に一つおやりになっては。初めてみるとなかなか面白いものですよ。」
 ドクトルは傍《そば》へ寄って来て勧めた。
 そのドクトルが今夜も来ているのであった。小夜子はそれをことさら煩《うるさ》がっているような口吻《くちぶり》を洩《も》らしていたが、庸三自身も蔭《かげ》でどんなことを言われていたかは解《わか》らないのであった。
 庸三は葉子がこのドクトルの家《うち》に身を寄せていたのを想像してみたりしたが、女学校卒業前後に何かいやな風評が立って、それを避けるために、ドクトルの家でしばらく預かることになったというのは、よくよくの悪い邪推で、真実は音楽学校の試験でも受けに来ていたというのが本当らしかった。庸三は葉子と交渉のあった間、もしくはすっかり手が切れてしまってからも、後から後からと耳に入るのは、いつも彼女の悪いゴシップばかりで、ある時は正面を切って、彼女を擁護しようと焦慮《あせ》ったことが、二重に彼を嘲笑《ちょうしょう》の渦《うず》に捲《ま》きこんで、手も足も出なくしてしまった。
 約束の十時に、庸三は小夜子の家を引きあげた。そして、円タクを通りで乗りすてて家の近くまで来ると、そっと向う前にある葉子の二階を見あげた。二階は板戸が締まっていて、電燈の明りも差していなかったが、すぐ板塀《いたべい》の内にある下の六畳から、母と何か話している彼女の声が洩れた。庸三はほっとした気持で格子戸《こうしど》を開けた。
「一時間も――もっと前よ、私の帰ったのは。」
 彼女はけろりとした顔で、二階へあがって来た。
「どうかしたの。」
「後でよく話すけれど、私|喧嘩《けんか》してしまったのよ。」
 庸三は惘《あき》れもしなかった。
「約束の家で……。」
「うーん、家が気に入らなかったから、あすこを飛び出して、土手をぶらぶら歩いたの。そして別の家へ行ってみたの。それはよかったけれど、お酒飲みだすと、あの人の態度何だか気障《きざ》っぽくて、私|忿《おこ》って廊下へ飛び出しちゃったものなの。そうなると、私後ろを振り返らない女よ。あの人玄関まで追っかけて来たけれど。」
「それじゃまるで喧嘩しに行ったようなものじゃないか。」
「いいのよ、どうせ明日上野まで送るから。」
 葉子はそう言って、寂しさを胡麻化《ごまか》していた。
 翌日になると、葉子は時間を見計らって、家を出て行った。そして銀座で水菓子の籠《かご》を誂《あつら》えると、上野駅まで自動車を飛ばした。しかもその時はもう遅かった。重い水菓子の籠を赤帽に持たせて、急いで歩廊へ出て行った時には、汽車はすでに動き出していた。
 葉子はすごすご水菓子を自動車に載せて、帰って来た。そして着替える隙《ひま》もなく、その籠を彼の田舎《いなか》の家へ送るために、母と二人で荷造りを初めた。籠は大粒の翡翠色《ひすいいろ》した葡萄《ぶどう》の房《ふさ》や、包装紙を透けて見える黄金色《こがねいろ》のオレンジなどで詰まっていた。
「少しくらい傷《いた》んでも、田舎ではこんなもの珍らしいのよ。」
 葉子はさすがに度を失っていた。
 しかし彼女のその夜の気紛《きまぐ》れな態度が、つまりどんなふうに今後の運命に差し響いたであろうかは、大分後になってから、やっと解《わか》ったことで、まれの媾曳《あいびき》から帰って来た時の、前夜二回の葉子の胡散《うさん》らしい報告が、事実であったことが、庸三に頷《うなず》けたのも、その時になってからであった。

      十二

 いよいよ葉子を病院へ送りこんでからの庸三は、にわかにこの恋愛生活の苦悩から解放されたような感じで一時ほっとした。それには永年の懸案であった家の増築ということも彼の気分転換に相当役立った。増築の出来|栄《ば》えが庸三の期待を裏切ったことはもちろんであったが、一旦請負師の要求に応じて少なからぬ金を渡し、貨車で運ばれた建築用材を庭の真中へ積みこまれてしまうと、その用材からしてすでに約束を無視したものだということに気がついていても、今更どうすることもできないのであった。庸三は持合せの金も少なかったし、それほどの建築でもないので、自分からかれこれ設計上の註文《ちゅうもん》を出すことを遠慮して、わざと大体の希望を述べるに止《とど》めておいたのだった。
「余計な細工はいらない。とにかくがっちりしたものを造ってもらいたいんで。」
「ようがす。ちょうど材木の割安なものが目つかりましたから。」
 請負師はそう言って、金を持って行ったのであった。この請負師は庸三の懇意にしている骨董屋《こっとうや》の近くに、かなり立派な事務所をもっていて、その骨董屋の店で時々顔が合っていた。同じ店頭へ来て、煎茶《せんちゃ》の道具などを弄《いじ》っている、その夫人のどこか洗練された趣味から推しても、工学士であるその主人に十分建築を委《まか》しきってよいように考えられたものであったが、仕事は別の大工が下受けしたものだことがじきに解って来た。人を舐《な》めたようなやってつけ仕事がやがて初まり、ばたばた進行した。手丈夫ということは、趣味の粗悪という意味で充分認められないこともなかったが、形が出来るに従って彼は厭気《いやけ》が差して来た。しかしもう追っつかなかった。費用がほとんど倍加して来たことも仕方がなかった。住居《すまい》が広くなっただけでも彼は満足するよりほかなかった。そこには古い彼の六畳の書斎だけが、根太《ねだ》や天井を修繕され、壁を塗りかえられて残されてあった。三十年のあいだ薄い頭脳と乏しい才能を絞って、その時々の創作に苦労して来たのもその一室であったが、いろいろな人が訪ねて来て、びっくりしたような顔で、貧弱な部屋を見廻わしたのも、その一室であった。そこはまた夫婦の寝室でもあり、病弱な子供たちの病室でもあった。わずか半日半夜のうちに、十二の夏|疫痢《えきり》で死んで行った娘の畳の上まで引いた豊かな髪を、味気ない気持で妻がいとおしげに梳《くしけ》ずってやっていたのも、その一室であった。お迎いお迎えという触れ声が外にしていて、七月十七日の朝の爽《さわ》やかな風が、一夜のうちに姿をかえた少女の透き徹《とお》るような白い額を撫《な》でていた。そして気が狂わんばかりに、その時すっかり生きる楽しさを失ってしまった妻も、十数年の後の、ついこの正月の二日の午後には、同じ場所で、子供たちの母を呼ぶ声を後に遺《のこ》して冷たい空骸《なきがら》となって横たわっていたのであった。この部屋での、そうした劃期的《かっきてき》の悲しみは悲しみとしても、彼は何か小さい自身の人生の大部の痕迹《こんせき》が、その質素な一室の煙草《たばこ》の脂《やに》に燻《いぶ》しつくされた天井や柱、所々骨の折れた障子、木膚《きはだ》の黝《くろ》ずんだ縁や軒などに入染《にじ》んでいるのを懐かしく感ずる以外に、とてもこれ以上簡素には出来ないであろうと思われるほど無駄を省いた落着きのよさが、今がさつな新築の書斎に坐ってみて、はっきりわかるような気がするほど、増築の部分がいやなものに思われた。しかし、今まで庭の隅《すみ》になっていて、隣の三階の窓から見下ろされる場所に、突き出して建てた、床のやや高めになった六畳の新しい自分の部屋に机をすえていると、台湾|檜《ひのき》の木の匂いなどもして、何か垢《あか》じみた古い衣をぬぎすてて、物は悪くてもとにかく新しいものを身につけたような感じで、ここはやはりこれからの清浄な仕事場として、葉子に足を踏み入れさせないことにしようと、彼は思ったほどであった。
 葉子はある時は、ほぼ形の出来かかった建築を見に来て、機嫌《きげん》の好いときは、二階の子供の書斎の窓などについて、自身の経験と趣味から割り出した意見を述べ、子供たちと一緒になって、例の愛嬌《あいきょう》たっぷりの駄々っ子のような調子で、日本風の硝子《ガラス》の引戸の窓に、洋風の窓枠《まどわく》を組み込んで開き窓に改めさせなどしたこともあったが、しかし子供たちのための庸三の家のこの増築は、彼女にとってはあまり愉快なものではなかった。
「いいもんだな先生んとこは、家が立派になって。」
 葉子は笑談《じょうだん》のように羨望《せんぼう》の口吻《こうふん》を洩《も》らすこともあったが、大枚の生活費を秋本に貢《みつ》がせながら、愛だけを独占しようとしている庸三の無理解な利己的態度が、時には腹立たしく思えてならなかった。たといそれが庸三自身の計画的な行動ではなく、彼女自身の悧巧《りこう》な頭脳《あたま》から割り出されたトリックであるにしても、葉子自身そうした苦しいハメに陥ったことに変りはなかった。彼女はどんな無理なことも平気でやって行けるような、無邪気といえば無邪気、甘いといえば甘い、自己陶酔に似たローマンチックな感情の持主で、それからそれへと始終巧妙に、自身の生活を塗りかえて行くのに抜目のない敏感さで、神経が働いているので、どうかすると何かしら絶えず陰謀をたくらんでいる油断も隙《すき》もない悪い女のように見えたり、刹那々々《せつなせつな》に燃え揚がる情熱はありながらも、生活的に女らしい操持に乏しいところから、ややもすると娼婦型《しょうふがた》の浮気女のような感じを与えたりするのであった。彼女は珍らしもの好きの子供が、初めすばらしい好奇心を引いた翫具《おもちゃ》にもじきに飽きが来て、次ぎ次ぎに新しいものへと手を延ばして行くのと同じに、ろくにはっきりした見定めもつかずに、一旦好いとなると、矢も楯《たて》もたまらずに覘《ねら》いをつけた異性へと飛びついて行くのであったが、やがて生活が彼女の思い昂《あが》った慾望に添わないことが苦痛になるか、または、もっと好きそうなものが身近かに目つかるかすると、抑えがたい慾望の※[「※」は「閻」の「門がまえ」の中の右側に「炎」、第3水準1−87−64、212−上−9]《ほのお》がさらに彼女を駆り立て、別の異性へと飛び蒐《かか》って行くのであったが、一つ一つの現実についてみれば、あまりにも神経質な彼女の気持に迫り来るようなものが、この狭い地上の生活環境のどこにも見出《みいだ》されようはずもないので、到《いた》るところ彼女の虹《にじ》のような希望は裏切られ、わがままな嘆きと悲しみが、美しい彼女の夢を微塵《みじん》に砕いてしまうのであった。しかし北の海の荒い陰鬱《いんうつ》さの美しい自然の霊を享《う》けて来た彼女の濃艶《のうえん》な肉体を流れているものは、いつも新しい情熱の血と生活への絶えざる憧《あこが》れであった。とかく生活と妥協しがたいもののように見える彼女の恋愛巡礼にも、あまりに神経的な打算があった。大抵彼女の産まれた北方には、詳しくいえばそれは何も北方に限ったことでもないが、女の貞操ほどたやすく物質に換算されるものはなかった。庸三は二度も行って見た彼女の故郷の家のまわり一体に、昔、栄えた船着場の名残《なご》りとしての、遊女町らしい情緒《じょうしょ》の今も漂っているのと思いあわせて、近代女性の自覚と、文学などから教わった新しい恋愛のトリックにも敏《さと》い彼女が、とかく盲目的な行動に走りがちである一方に、そこにはいつも貞操を物質以下にも安く見つもりがちな、ほとんど無智《むち》といえば言えるほど曖昧《あいまい》な打算的感情が、あたかも過去の女性かと思われるほどの廃頽《はいたい》のなかに見出されるのを感ずるのであった。もちろん末梢《まっしょう》神経の打算なら、近代の人のほとんどすべてがそれを持っていた。庸三もそれに苦しんでいる一人であった。
 庸三は葉子の痔疾《じしつ》の手術に立ち会って以来、とかく彼女から遠ざかりがちな無精な自身を見出した。
 もちろんそれは前々から彼の頭脳にかかっていた暗い雲のような形の、この不純でややこしい恋愛に対する嫌悪感《けんおかん》ではあったが――そしてそれは激しい非難や、子供たちの不満のために醸《かも》された、妙にねじけ
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