てみせることもあった。その文句は庸三にも大抵想像がつくので、わざと見ぬふりをしていた。
するとちょうどその日は庸三も、田舎で世話になった葉子の母親に、歌舞伎座《かぶきざ》を見せることになっていて、無論葉子も同行するはずで、三枚切符を買ってあった。
「先生はお母さんつれて、行っていてちょうだい。私秋本さんのホテルを訪ねて、三十分か――長くとも一時間くらいで切り揚げて行きますから。きっとよ。いいでしょう。」
葉子はあわただしく仕度《したく》をすると、そう言って一足先きに家を出た。
庸三と母親は、しばらくすると歌舞伎座の二階|棧敷《さじき》の二つ目に納まっていた。それが鴈治郎《がんじろう》一座の芝居で、初めが何か新作物の時代ものに、中が鴈治郎の十八番の大晏寺《だいあんじ》であった。庸三はそのころまだ歌舞伎劇に多少の愛着をもっていただけに、肝腎《かんじん》の葉子が一緒にいないのが何となく心寂しかった。母親も話はよくする方だったが、彼女の田舎言葉は十のうち九までは通じないのであった。
幕数が進むに従って、庸三はようやく落着きを失って来た。芝居を見たいことも見たかったが、逢《あ》いに行ったホテルの一室の雰囲気《ふんいき》も気にかかった。こんな享楽場で同伴《つれ》を待つということは、相手が誰であるにしても、とかく神経質になりがちなものだが、この場合の庸三は特にも観劇気分が無残に掻《か》き乱された。彼はしばしば場席を出て、階段口まで出て行ったが、到頭入口まで出向いて行って、その時になってもなおたまには自動車を出て来る人を点検しながら、その辺をぶらついていた。そうしているうちに苛々《いらいら》しい時間が二時間も過ぎてしまった。果ては神経に疲れが出て来て、半分は諦《あきら》めの気易《きやす》さから、わざと席に落ち着いていた。肝腎の中幕の大晏寺がすでに開幕に迫っていた。舞台裏の木の音が近づいて来た。
そこへ葉子がふらふらと入って来た。
「どうもすみません。待ったでしょう。」
葉子はそう言って庸三の傍《そば》に腰かけた。
「でもよかった。今中幕が開くところだ。」
「そう。」
葉子は頷《うなず》いたが、顔も声も疲れていた。
庸三は窶《やつ》れたその顔を見た瞬間、一切の光景が目に彷彿《ほうふつ》して来た。葉子のいつも黒い瞳《ひとみ》は光沢を失って鳶色《とびいろ》に乾き、唇《くちびる》にも生彩がなかった。そういう時に限って、彼女はまた別の肉体に愛情を感ずると見えて、傍《はた》の目が一齊《いっせい》に舞台に集まっているなかで、その手が庸三にそっと触れて来るのであった。
鴈治郎の大晏寺は、庸三の好きなものの一つであった。役としての春藤某《しゅんとうなにがし》の悲痛な運命の下から、彼の大きな箇性《こせい》が、彼の大きな頭臚《あたま》のごとく、愉快ににゅうにゅう首を持ちあげて来るのが面白かった。
「ふふむ!」
と葉子も頬笑《ほほえ》みながら見惚《みと》れていた。
二番目の同じ人の忠兵衛《ちゅうべえ》はすぐ真上から見おろすと、筋ばった白い首のあたりは、皺《しわ》がまざまざ目立って、肩から背へかけての後ろ姿にも、争えない寂しさがあった。庸三は大阪で初めて見た花々しい彼の三十代以来の舞台姿を、長いあいだ見て来ただけに、舞台のうえの人気役者に刻んで行く時の流れの痕《あと》が、反射的に酷《ひど》く侘《わび》しいものに思われてならなかった。
それから中二日ほどおいて、ある夕方葉子の二階の部屋に二人いるところへ、女中のお八重が「今運転士さんが、これを持って来て、お迎えに来ました。」と言って、結び文《ぶみ》のようなものを、そっと葉子に手渡した。
葉子は麻布《あざぶ》のホテルで逢《あ》って来て以来、秋本のことをあまりよくは噂《うわさ》しなかった。彼の手が太く巌丈《がんじょう》なんでいやんなっちゃったとか、壁にかかっていた外套《がいとう》が、田舎《いなか》紳士丸出しだとか、いまだにトルストイやガンジイのことばかり口にして、田舎くさい文学青年の稚気を脱していないとか、ちょうどその翌晩に彼女はある新聞社の催しに係る講演などを頼まれ、ある婦人雑誌にも長編小説を書いていたりしていたところから、にわかに花々しい文壇へのスタアトを切り、新時代の女流作家としての存在と、光輝ある前途とが、すでに確実に予約されたような感じで、久しぶりで逢った秋本の気分が、何か時代おくれの土くさいものに思われてならなかった。
庸三は自分への気安めのように聴《き》き流していたが、いくらかは信じてもよいように思えた。
「今度もう一度逢いに行かしてね。わざわざ遠くから出て来ても、あの日は私も気が急《せ》いて、しみじみ話もできなかったもんで、どこか静かな処《ところ》で、一晩遊ぼうということになったの。」
庸三は頷いた。
「あの男、情熱家のようだね。」
「そうよ。私が部屋へ入ると、いきなり飛びついて天井まで抱きあげたりして……でもあの人何だか変なところがあるの。」
葉子は顔を紅《あか》くして、俛《うつ》むいていた。
「今度どこで逢うのさ。」
「どこか水のあるところがいいようなことを、あの人も言っていたけれど……。」
葉子は画家の草葉《そうよう》と恋に陥《お》ちて行ったとき、夜ふけての水のうえに軋《きし》む櫓《ろ》の音を耳にしながら、楽しい一夜を明かしたかつての思い出のふかい、柳橋あたりの洒落《しゃ》れたある家のことをよく口にしたものであったが、今度も多分その辺だろうかとも思われた。
「ちょっと見せてごらん。」
庸三はそう言ってその文を取ってみたが、場所はそれと反対の河岸《かし》で、家の名も書いてあった。それに文句が古風に気障《きざ》で、「ようさままいる」としたのも感じがよくなかった。庸三は案に相違して、むしろ歯が浮くような厭味《いやみ》を感じた。
「一つそっとその家《うち》へ上がって見てやろうかな。」
庸三は笑談《じょうだん》らしく言ってみた。
「ええ、来たってかまわないことよ。」葉子は平気らしく言って、やがて立ちあがった。
「何時ごろ帰る?」
「十時――遅くも十一時には帰って来るわ。」
彼女は指切りをして降りて行った。
庸三は空虚な心のやり場をどこに求めようかと考えるまでもなく、いつも行きつけの同じ大川ぞいの小夜子《さよこ》の家へタキシイを駆るのであった。するとちょうど交叉点《こうさてん》のあたりまで乗り出したところで、その辺を散歩している長男と平田青年とに見つかって、二人はいきなり車に寄りついて来た。
「どこへ行くんです。」
「ううん、ちょっと飯くいに……。」
庸三は少し狼狽《ろうばい》気味で、「一緒に乗らない?」と言ってしまった。
得たり賢しと二人は入って来たものだった。
庸三は多勢《おおぜい》の子供のなかでも、幼少のころから長男を一番余計手にもかけて来たし、いろいろな場所へもつれて行った。珍らしい曲馬団が来たとか、世界的な鳥人が来たとか、曲芸に歌劇、時としてはまだ見せるのに早い歌舞伎劇《かぶきげき》をも見せた。ある年|向島《むこうじま》に水の出た時、貧民たちの窮状と、救護の現場を見せるつもりで、息のつまりそうな炎熱のなかを、暑苦しい洋服に制帽を冠《かぶ》った七八つの彼を引っ張って、到頭|千住《せんじゅ》まで歩かせてしまった結果、子供はその晩から九度もの熱を出して、黒い煤《すす》のようなものを吐くようになった。
「それあ少し乱暴でしたね。」
庸三は小児科の先生に嗤《わら》われたが、子供をあまりいろいろな場所へ連れ行くのはどうかと、人に警告されたこともあった。しかし後に銀ぶらや喫茶店や、音楽堂入りを、かえってこの子供から教わるようになったころには、彼も自分の教育方法が、全然盲目的な愛でしかなかったことに気がついて、しばしば子供の日常に神経を苛立《いらだ》たせなければならなかった。それに大抵年に一度か二度、胃腸の疾患とか、扁桃腺《へんとうせん》とかで倒れるのが例で、中学から上の学校へ入るのに、二年もつづいて試験の当日にわかに高熱を出して、自動車で帰って来たりして、つい入学がおくれ、その結果中学時代に持っていた敬虔《けいけん》な学生気分にも、いつか懈怠《げたい》が来ないわけに行かなかった。ここにも若ものの運命を狂わせる試験地獄の祟《たた》りがあったわけだが、それが庸三の不断の悩みでもあった。
けれど今になってみると、彼はむしろ自身の足跡を、ある程度彼にも知らせておいていいような気分もした。それがもし恋愛といったような特殊の場合であるとしても、老年の彼以上にも適当な批判を下しうるだけの、近代人相応の感覚や情操に事欠くこともあるまい――と、そう明瞭《めいりょう》には考えなかったにしても、少なくもそういった甘やかしい感情はもっていた。ルウズといえば庸三ほどルウズな頭脳の持主も珍らしかった。
ここは水に臨んでいるというだけでも、部屋へ入った瞬間、だれでもちょっと埃《ほこり》っぽい巷《ちまた》から遠ざかった気分になるのであったが、庸三たちには格別身分不相応というほどの構えでもなく、文学にもいくらか色気のある小夜子を相手に無駄口をききながら、手軽に食事などしていると、葉子事件に絡《から》む苦難が、いくらか紛らせるのであった。
「いつかも伺ったけれど、小説てそんなにむずかしいもんですの。」
小夜子はこのごろも書いたとみえて、原稿|挟《ばさ》みを持ち出して来て、書き散らしの小説を引っくらかえしていたが、庸三はこの女は書く方ではなくて、書かれる方だと思っていたので、
「やっぱり五年十年と年期を入れないことには。何よりも文章から初めなくちゃ。」
と言って笑っていたが、今のように親しくなってみると、変化に富んだ彼女の過去については、何一つ纏《まと》まった話の筋に触れることもできなかった。
子供と平田が交通|頻繁《ひんぱん》な水の上を見ていると、やがて夕方のお化粧を凝《こ》らした小夜子が入って来た。そして胡座《あぐら》を組んだまま、丸々した顔ににこにこしている子供を見ていたが、
「こちらいつかお宅でお目にかかった坊っちゃんですの。」
庸三も笑っていたが、あらためて平田青年をも紹介して、食べものの見繕《みつくろ》いを頼んでから、風呂《ふろ》へ入った。
庸三はどこかこの同じ川筋の上流の家で、葉子が秋本と、今ごろ酒でも飲んで気焔《きえん》を挙げているであろうと思われて、それは打ち明けられたことだけに、別にいやな気持もしないのであったが、自身の妙な立場を考えると、何か擽《くすぐ》ったい感じでもあった。すると廊下を一つ隔《へ》だてた、同じ水に臨んだ小室《こべや》の方で、やがて小夜子がお愛相《あいそ》笑いしていると思ったが、しばらくすると再び庸三たちの方へ戻って来た時には、ビイルでも呑《の》んだものらしく、目の縁《ふち》がやや紅《あか》くなっていた。庸三はこのごろ仲間の人たちで、ここを気のおけない遊び場所にしている人も相当多いことを考えていたので、隣りの客がもしかするとその組ではないかと思ったが、小夜子に聞いてみると、それは最近ちょくちょく一人でそっとやって来る、近所の医者だことが解《わか》った。彼も風変りなこのマダムのファンの一人で、庸三もある機会にちょっと診《み》てもらったこともあって、それ以来ここでも一度顔が合った。不思議なことには、それが女学校を出たての葉子がしばらく身を寄せていたという彼女の親類の一人であった。葉子が人形町あたりの勝手をよく知っていて、わざわざ伊達巻《だてまき》など買いに来たのも理由のないことではなかった。そしてそう思ってみると、ぴんと口髯《くちひげ》の上へ跳《は》ねたこのドクトルの、型で押し出したような顔のどこかに、梢家《こずえけ》の血統らしい面影も見脱《みのが》せないのであった。がっちりしたその寸詰りの体躯《たいく》にも、どこか可笑《おか》しみがあって、ダンスも巧かった。庸三は小夜子と人形町のホオルを見学に入ったとき、いかにも教習所仕立らしい真面目《ま
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