をもつことから教わったんだが、幾日来ても物にならずじまいさ、君はつけるかい。」
「北海道では撞《つ》いたもんでしたけれど。あの時分は奥さん方のいろいろな社交もあって、ダンスなんかもやったものなのよ。S――さんの弟さんの農学士の人の奥さんに教わって。」
 葉子はいつの場合でも、ロマンチックな話の種に事欠かなかった。グロなその夫人と、土地の商船学校にいた弟との恋愛模様とか、その弟に年上の一人の恋人があって、その弟とのあいだに出来た子供を抱えながら、生花やお茶で自活していることだの、または葉子が乳の腫物《はれもの》を切開するために入院したとき、刀を執った医学士が好きになって、後でふらふらとその男を病院に訪ねて拒絶されたことなど。そうかと思うと、原稿紙をもって不意に姿を晦《くら》まして人を騒がせ、新聞のゴシップ種子《だね》になるようなことも珍らしくなかった。
 町に薄暗い電気がつく時分に、宿へ帰って楽しい食卓に就《つ》いた。思い做《な》しか庸三はここの玄関の出入りにも、何か重苦しいものをこくめい[#「こくめい」に傍点]な番頭たちの目に感じるのだったが、葉子は水菓子を女中に吩咐《いいつ》けるにも、使いつけの女中のような親しさで、ただ新聞記者でも来ていはしないかと、隣室の気勢《けはい》に気を配るだけであった。
 しかし刺戟《しげき》のつよい湯は彼女にとって逆効果を現わした。三日ばかり湯に浸ってはガアゼの詰めかえをやっているうちに、痛みがだんだん募って来るばかりで、どうかすると昼間でも床を延べさせて横になるのであった。昨日まで時々やって来る少しばかりの苦痛を我慢して、大倉公園へ遊びに入って、色づいた木々のあいだを縫って段々を上ったり、岩組みの白い流れのほとりへ降りてみたり、萩《はぎ》や鶏頭の乱れ咲いている花畑の小径《こみち》を歩いたり、または町の奥にある不動滝まで歩いて、そこからまた水のしたたる岩壁の裾《すそ》をめぐって、晴れた秋の空に焚火《たきび》の煙の靡《なび》く、浅い山の姿を懐かしんだりしていた彼女は、飛んでもないところへ連れて来られでもしたように、眉《まゆ》のあいだに皺《しわ》を寄せて、すっかり機嫌《きげん》がわるくなってしまった。そしてそうなると、庸三も何か悪いことでもしたようで、ひそかに弱い心臓を痛めるのであった。潤《うる》んだ目をして、じっと黙りこくっているとか、または壁の方をむいて少しうとうとしたかと思うと、目を開いたりする彼女の傍《そば》にいるのが、次第に憂鬱《ゆううつ》になって来た。
 ある晩方も、庸三はピンセットを使ってから、風呂《ふろ》へ入って、侘《わび》しげな電燈の下で食卓の前にすわった。葉子は傍に熱っぽい目をして臥《ふ》せっていた。頬《ほお》もぽっと紅《あか》くなっていた。こうなると彼女は母親から来るらしく見せて、実は田舎《いなか》の秋本に送らせた金で、彼と一緒に温泉へ来ていることも忘れて、平気でいるらしい庸三の顔さえ忌々しくなるのではないかと、彼は反射的に感じるのであったが、またそう僻《ひが》んで考えることもないのだという気もして、女中が目の前に並べる料理を眺めていた。
「何にも食べない。」
 彼女は微《かす》かに目で食べないと答えたらしかったが、庸三が心持|不味《まず》そうに食事をしていると、葉子はひりひりした痛みを感ずるらしく、細い呻吟声《うめきごえ》を立て、顔をしかめた。彼は硬《かた》い表情をして別のことを考えていたので、振り向きもしなかった。
「人がこんなに苦しんでいるのに、平気で御飯たべられるなんて、何とそれが老大家なの。」
 庸三はぴりッとした。そしてかっとなった。彼は食事もそこそこに食卓を離れて、散らかった本や原稿紙と一緒に着替えをたたんで鞄《かばん》に始末をすると、※[#「※」は「糸」+「褞」のつくり、第3水準1−90−18、202−上−9]袍《どてら》をぬいで支度《したく》をした。
「おれも君の看護に来たんじゃないんだ。いい迷惑だ。独りでやるがいいんだ。」
 庸三はぷりぷりして、電話で汽車の時間をきくと、煙草《たばこ》にマッチを摺《す》りつけた。番頭がやって来て、
「お帰りでございますか。」
「ちょっと用もできたから。」
 番頭は急げば最終のに間に合うがと、少し首を傾《かし》げていたが、庸三はじっとしてもいられなかった。自動車の爆音がしたので、彼はインバネスを着て、あたふたと部屋を出たが、車が走りだしてから、彼は何か後ろ髪を引かれる感じで、この場の気まずさを十分知りながらも、汽車に間に合わないことを半ば心に念じた。熱海《あたみ》へでもドライブしようかとも考え、家《うち》へ帰って書斎に寝た方が楽しいようにも感じた。
 石塊《いしころ》の多い道を、車はガタガタと揺れながらスピイドを出した。庸三は時々|転《ころ》がりそうになったが、風も吹いていたので、揺れる拍子に窓枠《まどわく》に頭をぶちつけそうになって、その瞬間半分ガラスを卸してあった窓から帽子が飛んでしまった。ちょうどわざと飛ばしたように。
「君ちょっと帽子が飛んじゃったんだ。」
 運転士は車を止めて風の強い叢《くさむら》のなかに帽子を捜したが、しかしそれも物の二分とはかからなかった。
 駅の灯《ひ》が間近に見えて来た。そして今ちょっとのところで駅前の広場へ乗り入れようとした時、汽車の動く音がした。
 庸三は何か悪戯《いたずら》でもしたようなふうで部屋へ戻って来た。
「先生オレンジをそう言って!」
 やがて葉子も寝床から起きあがった。
 入院するまでに葉子の支度はかなり手間取った。ちょうど婦人雑誌に小説を連載していたところなので、それも二月分ためる必要があったし、瑠美子《るみこ》には何か花やかな未来を約束しておきたかったので、差し当たりいつも新しい道を切り開いて、世間の気受けもいい舞踊家の雪枝《ゆきえ》に、内弟子として住みこませたい念願だったので、支度が出来次第、それも頼みに行かなければならなかった。何よりも母に来てもらわなければならなかった。
 葉子は湯河原の帰りにも、汽車のクションで臥《ね》ていたくらいで、小田原《おだわら》でおりた時は、顔が真蒼《まっさお》になって、心臓が止まったかと思うほど、口も利けず目も見えなくなって、庸三の手に扶《たす》けられて、駅脇《えきわき》の休み茶屋に連れこまれた時には、まるで死んだように、ぐったりしていたものだが、やっと男衆の手で、奥の静かな部屋へ担《かつ》ぎこまれて、そこでややしばらく寝《やす》んでいるうちに、額に入染《にじ》む冷たい脂汗《あぶらあせ》もひいて、迅《はや》い脈もいくらか鎮《しず》まって来た。彼女はどうかして痛い手術を逃げようとして、かえって手術の必要を痛切に感ずるようになった。
 ある日、葉子は、濃《こ》い鼠《ねずみ》に矢筈《やはず》の繋《つな》がった小袖《こそで》に、地の緑に赤や代赭《たいしゃ》の唐草《からくさ》をおいた帯をしめて、庸三の手紙を懐《ふとこ》ろにして、瑠美子をつれて雪枝を訪問した。雪枝は内弟子に住みこませることを快く引き受けてくれたが、詩も作り手蹟《しゅせき》も流麗で、文学にも熱意をもっているので、葉子も古い昵《なじ》みのように話しがはずんだ。庸三が葉子につれられて、お浚《さら》いを見に行ったのも、それから間もないある日の晩方であった。
「私も小説が書きたくて為様《しよう》がなかったんですけどもね。」
 何かごちゃごちゃ装飾の多い彼女の小ぢんまりした部屋で、気のきいた晩餐《ばんさん》の御馳走《ごちそう》になりながら、庸三は彼女の芸術的|雰囲気《ふんいき》と、北の人らしい情熱のこもった言葉を聴《き》いていたが、芸で立つ人の心掛けや精力も並々のものではなかった。話がかつての彼女の恋愛に及んで来ると、清《すず》しい目ににわかに情熱が溢《あふ》れて来た。
 しかし彼女は独りではなかった。庸三が前からその名を耳にしていた若い文学者の清川がそこにいて、下町の若旦那《わかだんな》らしい柄の彼を、初め雪枝が紹介した時に、庸三はそれが彼女の若い愛人だと気づきながら、刹那《せつな》に双方の組合せがちょっと気になって、何か仄《ほの》かな不安を感ずるのであった。
「これこそ葉子に似合いだ。」
 庸三はそう思った。
 葉子が病室で着るつもりで作った、黝《くろ》ずんだ赤と紺との荒い棒縞《ぼうじま》の※[#「※」は「糸」+「褞」のつくり、第3水準1−90−18、203−下−9]袍《どてら》も、不断着ているので少し汚《よご》れが見えて来たが、十一月もすでに半ば以上を過ぎても、彼女はまだ二階の奥の間に寝たり起きたりしていた。そのころになると、ガアゼの詰めかえも及ばなくなって、どうかすると彼女は痛さを紛らせるために、断髪の頭を振り立て、じだんだ踏んで部屋中|跳《と》びあるいた。彼女は間に合わせの塗り薬を用いて、いくらか痛みを緩和していた。庸三はしばしば彼女の傍《そば》に寝たが、ある夜彼は彼女の口から、秋本が見舞いがてら上京するということを聴《き》いた。
「あの人時々東京へ来るのよ。」
 葉子は気軽そうに言った。
「来てもほんの二三日よ。だけど、私お金もらってるから、一度だけ行かしてね。」
 それが病気見舞かと思われ、葉子の動静を探るためかと思われたが、葉子の様子に変りはなかった。
 その二階から見える庸三の庭では、焚火《たきび》の煙が毎日あがっていた。もう冬も少し深くなって、増築の部分の棟《むね》あげもすんでいた。彼はぜひとも家をどうにかしなければならない羽目になっていた。

      十一

 ある日の午後、葉子は庸三《ようぞう》の同意の下に、秋本の宿を訪問すべく、少し濃いめの銀鼠地《ぎんねずじ》にお納戸色《なんどいろ》の矢筈《やはず》の繋《つな》がっている、そのころ新調のお召を着て出て行った。多少結核性の疑いもあるらしい痔疾《じしつ》のためか、顔が病的な美しさをもっていて、目に潤《うる》んだ底光りがしていた。少なからぬ生活費を遠くにいる秋本に送らせながら、身近かにいる庸三に奉仕しているということが、たといそれが小説修業という彼女の止《や》みがたき大願のためであり、その目的のためには有り余る秋本の財産の少し減るぐらいは、大した問題ではないにしても、時々には秋本を欺いていることに自責の念の禁じ得ないこともあって、それが痔の痛みと一緒に、ひどく彼女の神経を苛立《いらだ》たせた。同時に葉子の体を独占的に縛っているかのように思える庸三が、ひどく鈍感で老獪《ろうかい》な男のように思えて、腹立たしくもなるのであった。傍《はた》からの目には、とかく不純だらけのように見えるであろう彼女の行為も、彼女自身からいえば、現われ方は歪《ゆが》んでいても、それは複雑で矛盾だらけの環境と運命のせいで、真実《まこと》は思いにまかせぬ現実の生活のために、弱い殉情そのものが無残に虐《しいた》げられているのだと思われてならなかった。いわば彼女の殉情と文学的情熱とは、現実の蜘蛛《くも》の巣にかかって悶《もだ》えている、美しい弱い蝶《ちょう》の翅《はね》のようなものであった。
「そんなに金を貰《もら》ってもいいのか。」
 二百三百と、懐《ふとこ》ろがさびしくなると、性急に電報|為替《がわせ》などで金を取り寄せていることが、そのころにはだんだん露骨になって、見ている庸三も気が痛むのであった。
「いいのよ、有るところには有るものなのよ。」
「いや、もう大して無いという話だぜ。」
「ないようでも田舎《いなか》の身上《しんしょう》っていうものは、何か彼《か》か有るものなのよ。」
 葉子は楽観していたが、送ってくれる金の受取とか礼状とかいったようなものも、なかなか書かないらしいので、庸三はそれも言っていた。
「だから私困るのよ。手紙を出すとなると、あの人が満足するように、いくらか艶《つや》っぽいことも書かなきゃならないし、書こうとすれば、先生の目はいつも光っているでしょう。」
 そう言って葉子は苦笑していたが、わざと庸三の前で、達筆に書い
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