時には、すでに創口《きずぐち》が消毒されていた。やがて沃度《ヨード》ホルムの臭《にお》いがして、ガアゼが当てられた。
医師が器械を片着けて帰るころには、葉子の顔にも薄笑いの影さえ差していた。そしてその時から熱がにわかに下がった。
庸三は母や兄の親切なサアビスで、一日はタキシイを駆って、町から程合いの山手の景勝を探って、とある蓮池《はすいけ》の畔《ほと》りにある料亭《りょうてい》で、川魚料理を食べたり、そこからまた程遠くもない山地へ分け入って、微雨のなかを湖に舟を浮かべたり、中世紀の古色を帯びた洋画のように、幽邃《ゆうすい》の趣きをたたえた山裾《やますそ》の水の畔《ほとり》を歩いたりして、日の暮れ方に帰って来たことなどもあって、また二日三日と日がたった。
そんな時、庸三は今まで誰か葉子の傍《そば》にいたものがあったような影も心に差すのであったが、葉子はそれとは反対に、蚊帳《かや》の外に立膝している庸三に感激的な言葉をささやくのであった。
「これが普通の恋愛だったら、誰も何とも言やしないんだわ。年のちがった二人が逢《あ》ったという偶然が奇蹟《きせき》でなくて何でしょう。」
しかし庸三はまたその言葉が隠している、真の意味も考えないわけに行かなかった。三年か五年か、せいぜい十年も我慢すれば、やがて庸三もこの舞台から退場するであろう。そして一切が清算されるであろう。それまでに巧くジャーナリズムの潮を乗り切った彼女を、別の楽しい結婚生活が待っているであろうと。
庸三は今彼の書斎で、せっせと紙の上にペンを走らせていた。
書いているうちに、何か感傷が込みあげて、字体も見えないくらいに、熱い涙がにじんで来た。彼は指頭《ゆびさき》や手の甲で涙を拭《ふ》きながら、ペンを運んでいた。彼は次ぎの部屋で、すやすや明け方の快い睡《ねむ》りを眠っている幼い子供たちのことで、胸が一杯であった。宵《よい》に受け取った葉子の電報が、机の端にあった。
アシタ七ジツク
というのであった。
病床にいる彼女と握手して帰ってから、もう二週間もの日が過ぎたが、その間に苦しみぬいた彼の心も、だんだん正常に復《かえ》ろうとしていた。ここですっかり自身を立て直そうと思うようになっていた。その方へ心が傾くと、にわかに荷が軽くなったような感じで、道が目の前に開けて来るのであった。
板戸も開け放したまま、筒袖《つつそで》の浴衣《ゆかた》一枚で仕事をしていたのだったが、雀《すずめ》の囀《さえず》りが耳につく時分に書きおわったまま、消えやらぬ感激がまだ胸を引き締めていた。
電報を手にした時、彼は待っていたものが、到頭やって来たという感じもしたが、あわててもいた。
「……一年や二年、先生のお近くで勉強できるほどの用意もできましたので……」
そう言った彼女の手紙を受け取ったのも、すでに三日四日も前のことであったが、立て続けに二つもの作品を仕上げなければならなかったので、あれほど頻繁《ひんぱん》に手紙を彼女に書いていた庸三も、それに対する返辞も出さずにいた。真実のところ彼はこの事件に疲れ果てていた。享楽よりも苦悩の多い――そしてまたその苦悩が享楽でもあって、つまり享楽は苦悩だということにもなるわけだし、苦悩がなければ倦怠《けんたい》するかもしれないのであったが、それにしても彼はここいらで、どうか青い空に息づきたいという思いに渇《かわ》いていた。
この事件の幕間《インタアブアル》として、彼は時々水辺の小夜子の家《うち》へも、侘《わび》しさを紛らせに行った。その時分にはいつも中の間とか茶の間とかにいた、姉も田舎《いなか》へ帰ってしまって、彼も座敷ばかりへ通されていなかった。時間になると小夜子は風呂《ふろ》へ入って、それから鏡の前に坐るのであった。顔をこってり塗って、眉《まゆ》に軽く墨を刷《は》き、アイ・シェドウなどはあまり使わなかったが、紅棒《ルウジュ》で唇《くちびる》を柘榴《ざくろ》の花のように染めた。目も眉もぱらっとして、覗《のぞ》き鼻の鼻梁《びりょう》が、附け根から少し不自然に高くなっているのも、そう気になるほどではなく、ややもすると惑星のように輝く目に何か不安定な感じを与えもして、奈良《なら》で産まれたせいでもあるか、のんびりした面差《おもざ》しであった。美貌の矜《ほこ》りというものもまだ失われないで、花々しいことがいくらも前途に待っているように思えた。彼女は何かやってみたくて仕方がなかった。小説を書くということも一つの願望で、庸三は手函《てばこ》に一杯ある書き散らしの原稿を見せられたこともあった。
「私は何でもやってできないことはないつもりだけれど、小説だけはどうもむずかしいらしいですね。」
「男を手玉に取るような工合《ぐあい》には行かない。」
「あら、そんなことしませんよ。」
化粧がすむと着物を着かえて、まるで女優の楽屋入りみたいな姿で、自身で見しりの客の座敷へ現われるのであった。座敷を一つ二つサアビスして廻ると、きまって酔っていた。呷《あお》ったウイスキイの酔いで、目がとろんこになり、足も少しふらつき気味で、呂律《ろれつ》も乱れがちに、でれんとした姿で庸三の傍《そば》に寄って来ることもあった。
「相当なもんだな。」
庸三は無関心ではいられない気持で、
「随分|呑《の》むんだね。そう呑んでいいの。」
「大丈夫よ、あれっぽっちのウイスキイ。私酔うと大変よ。」
「お神さん!」
廊下で呼ぶ声がする。
「今あの人たちみんな帰りますから。」
しかし、そんな晩、彼女がどこで寝たかも彼には解《わか》りようもなかったし、何か商売の邪魔でもしているような気もして、彼はタキシイを言ってもらうのだったが、時には電気|行燈《あんどん》を枕元《まくらもと》において、ギイギイという夜更《よふ》けの水の上の櫓《ろ》の音を耳にしながら話しこむことも珍らしくなかった。
ある日も庸三は小夜子と一緒に、彼女の門を出た。
「先生、今日お閑《ひま》でしたら、神田まで附き合ってくれません? 私あすこで占《み》てもらいたいことがありますの。」
「いいとも、事によったら僕も。――君は何を占てもらうんだい。」
「差し当たり何てこともないんですけれど、私、妙ね。随分長いあいだの関係で、昔は一緒に世帯《しょたい》をもったこともありましたの。今は別に何てこともないんです。だけど、相手が逃げるとこっちが追っ駈《か》け、こっちが逃げると、先方が追っ駈けて来るといったあんばいで、切れたかと思うと時たってまた繋《つな》がったりして……変なものですね。」
小夜子はいつになくしんみりしていた。
「どんな人?」
「それが近頃ずっとよくないんですの。」
庸三は小夜子の好くような男はどんな男かと、それを探りたかったが、彼女はただそう言っただけで、その相手の概念だも与えなかった。しかしそれから大分たってから庸三がある晩茶の間の大振りな紫檀《したん》の火鉢《ひばち》の側にいると、その日はひどく客が立てこんで、勝手元も忙しく、間断なく料理屋へ電話をかけたりして、小夜子も不断着のまま、酒の燗《かん》をしたり物を運んだりしていたが、ふと玄関の方の襖《ふすま》を開けて※[#「※」は「糸」+「褞」のつくり、第3水準1−90−18、195−上−16]袍《どてら》姿で楊子《ようじ》を啣《くわ》えながら入って来る男があった。
「ああ、これだな。」
瞬間、庸三の六感が働いたが、それを見ると、いきなり小夜子はにやにやしながら、その男を連れ出してしまった。
それからまた三年も四年も経《た》って、彼は小夜子の二階の彼女の部屋で、その男ともしばしば花を引いたし、庸三の家《うち》へも遊びに来るようになったが、そのころには彼もかなりうらぶれた姿になって、見ちがえるほど更《ふ》けていた。そしてその時分になって、庸三はいろいろのことを知ることができた。ホン・クルベーの家から、彼女を引っ張り出したのも、かつては煮え湯を呑まされた彼の復讐《ふくしゅう》だったことも解った。
今、小夜子は彼との新生活に入るつもりで、場合によっては結婚もして本国へもつれて行くつもりでいるクルベーを振り切って出て来たのであったが、誘い出されてみると、まるで当てがはずれてしまった。現在の彼と一脈の新生活を初めるには、小夜子の生活は少し派手すぎていたし、趣味がバタくさかった。そこで小夜子は思いどおりに、こんな水商売を初めたわけであった。
まだ態形も調《ととの》わない金座通りへ出てから、小夜子は円タクを拾って、神田駅のガアド下までと決めた。
しかし一人ずつ二階へ呼びあげて占《み》るので、小夜子が占てもらう間、庸三は下でしばらく待っていた。そのうちに小夜子がおりて来た。占《うらな》わない前と表情に変りはなかった。やがて庸三も占てもらうことにした。
「合性は至極よろしい。しかしこの人は落ち着きませんね。よほど厳《きび》しく監督しないと、とかく問題が起こりやすい。」
占者は言うのであった。葉子のことであった。
そこを出ると、二人とも占いの結果については話す興味もなくて、少し通りをぶらついた果てに、二人で庸三の書斎へ帰ってみた。小夜子は紫檀《したん》の卓の前に坐って、雑誌など見ていたが、
「先生に私、何か書いていただきたいんですけれど。」
「書くけれど、僕のじゃ君んとこの部屋にうつらない。そのうち何かもって行って上げるよ。あれじゃ少し酷《ひど》いからね。追々取り換えるんだね。」
それから彼女の家の建築の話に移って、譲り受けた時の値段や、ある部分は改築のある部分は新築の費用などの話も出た。
庸三は燻《いぶ》しのかかった古い部屋を今更のように見廻した。
「この家もどうかしなきゃ。」
「そうですね、もしお建てになるようでしたら、あの大工にやらしてごらんなさいましよ。あれは広小路の鳥八十《とりやそ》お出入りの棟梁《とうりょう》ですの。」
大ブルジョアのその鳥料理屋が彼女の彼と、何かの縁辺になることも、その後だんだんに解《わか》って来た。
その時であった、凝ったその鳥料理屋の建築や庭を見いかたがた末の娘もつれて、晩飯を食べに行ったのは。美事な孟棕《もうそう》の植込みを遠景にして、庭中に漫々とたたえた水のなかの岩組みに水晶|簾《すだれ》の滝がかかっていて、ちょうどそれが薄暮であったので、青々した寒竹の茂みから燈籠《とうろう》の灯《ひ》に透けて見えるのも涼しげであった。無数の真鯉《まごい》緋鯉《ひごい》が、ひたひた水の浸して来る手摺《てすり》の下を苦もなげに游泳《ゆうえい》していた。桜豆腐、鳥山葵《とりわさ》、それに茶碗《ちゃわん》のようなものが、食卓のうえに並べられた。黒の縮緬《ちりめん》の羽織を着て来た清楚《せいそ》な小夜子の姿は、何か薄寒そうでもあったが、彼女はほんのちっとばかし箸《はし》をつけただけであった。
咲子は人も場所も、何か勝手がちがったようで、嬉《うれ》しそうでもなかったが、始終にこにこしていた。
「いつかクルベーさんと、何かのはずみで、急に日光へ行くことになって、上野駅へ来たのはよかったけれど、紙入れを忘れて来てしまったんですのよ。時間はないし、仕方がないから私がこの家へ来て事情を話すと、黙って三百円立て替えてくれたことがありましたっけ。」
そんな話も出たりして、帰りに三人で夜店の出ている広小路をあるいた。小夜子は子供の手を引いていたが、そうして歩くにも、何か人目を憚《はばか》るらしいふうにも見えるのであった。
ふと葉子の話が出た。
「僕もつくづくいやになった。止《よ》そうと思う。」
「止しておしまいなさい。」
「あと君が引き請ける?」
頼りなさそうな声で、
「引き請けます。」
今、庸三は別にそれを当てにしているわけではなかったけれど、葉子と別れるには、そうした遊び相手のできた今が時機だという気もしていたので、葉子を迎えに行くのを怠《ずる》けようとして、そのまま蚊帳《かや》のなかへ入って、疲れた体を横たえた。彼はじっと眼を瞑《つぶ》ってみた
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