、二人だけで暗い場末の街《まち》を歩いてみることや、通り筋の喫茶店でお茶を呑《の》むこともしばしばであった。葉子の家では以前町の大通り筋に塩物や金物の店を出していたこともあって、美貌《びぼう》の父は入婿《いりむこ》であったが、商才にも長《た》けた実直な勤勉家で、田地や何かも殖《ふ》やした方であったが、鉄道が敷けて廻船の方が挙がったりになってからも、病躯《びょうく》をかかえて各地へ商取引をやっていた。瑠美子が産まれてから間もなくその父は死んだが、葉子を特別に愛したことは、その日常を語る彼女の口吻《くちぶり》でも解《わか》るのであった。学窓に蔓《はびこ》っていた学生同志の同性愛問題で、そのころ教育界を騒がしたほどの女学校だけに、そしてそれがまた生徒と教師との恋愛問題をも惹《ひ》き起こしただけに、多分処女ではなかったらしい彼女の派手な結婚の支度《したく》や、三日にわたった饗宴《きょうえん》に金を惜しまなかった張り込み方を考えても、父の愛がどんなに彼女を思い昂《たかぶ》らせたか想像できるのであった。
 葉子の話では結婚の翌日、彼女は二階の一室で宿酔《ふつかよい》のさめない松川に濃い煎茶《せんちゃ》を勧めていた。体も魂も彼女はすっかり彼のものになりきった気持であった。彼女は畳に片手をついて吸子《きゅうす》のお茶を茶碗《ちゃわん》に注《つ》いだ。彼の寝所へ入ったのは、すでに一時過ぎであった。その時まで彼は座敷で方々から廻って来る盃《さかずき》を受けていたので、窓が白むまで知らずに爛睡《らんすい》していた。
 朝のお化粧をして、葉子が松川と差向いでいるところへ、にわかに段梯子に跫音《あしおと》がして、最初この結婚を取り持った葉子の従兄《いとこ》筋に当たる男が半身を現わした。
「いやどうもすっかり世話女房気取りだね。こいつは当てられました。」
 県の議員なんかをやってる素封家《そほうか》の子息《むすこ》である従兄はそう言って、顔を赤くしている新夫婦に目を丸くした。葉子もこの従兄とのかつての恋愛模様と、新夫婦を母とともども小樽まで送って行った時の、三人の三角なりな気持の絡《から》み合いは、何か美しい綾《あや》の多い葉子の話しぶりによると、それは相当|蠱惑的《こわくてき》なローマンスで、モオパサンの小説にも似たものであった。途中のある旅館における雨の侘《わび》しい晩に、従兄への葉子の素振りの媚《なま》めかしさが、いきなり松川の嫉妬《しっと》を抑えがたいものに煽《あお》りたてた。ちょっと話があると言って、にわかに葉子は薄暗い別室に拉《つ》れこまれた。
「おれはお前の良人《おっと》だぞ!」
 彼はそう言って葉子が顫《ふる》えあがるほど激情的に愛撫《あいぶ》した。
 着いてからも、従兄はしばらくその町に滞在していた。そして毎夜のように酒と女に浸っていたものだった。

 ある日離れで葉子と庸三とが文学の話などに耽《ふけ》っていると、そこへ母親が土間の方から次ぎの間の入口へ顔を出して、今瑠美子たちの継母《ままはは》と二人の書生とが、この古雪の町へ自動車で乗りこんで来たというから、多分子供たちを取り戻しに逆襲しに来たに違いない。と、あわただしく報告するのであった。
「そう!」
 葉子はその時少し熱があって、面窶《おもやつ》れがしていたが、子供のこととなると、仔猫《こねこ》を取られまいとする親猫のように、急いで下駄《げた》を突っかけて、母屋《おもや》の方へ駈《か》け出して行った。
 庸三は何事が起こるかと、耳を聳《そばだ》ててじっとしていたが、例の油紙に火のついたように、能弁に喋《しゃべ》り立てる葉子の声が風に送られて、言葉の聯絡《れんらく》もわからないながらに、次第に耳に入って来た。継母というのが、もと葉子が信用していた召使いであっただけに、頭から莫迦《ばか》にしてかかっているものらしく、何か松川の後妻としての相手と交渉するというよりも、奥さんが女中を叱《しか》っていると同じ態度であったが、憎悪とか反感とか言った刺《とげ》や毒が微塵《みじん》もないので、喧嘩《けんか》にもならずに、継母は仕方なしに俯《うつむ》き、書生たちは書生たちで、相かわらずやっとる! ぐらいの気持で、笑いながら聞き流しているのであった。そうなると、恋愛小説の会話もどきの、あれほど流暢《りゅうちょう》な都会弁も、すっかり田舎訛《いなかなま》り剥《む》き出しになって、お品の悪い言葉も薄い唇《くちびる》を衝《つ》いて、それからそれへと果てしもなく連続するのであった。ふと物の摺《す》れる音がして、柘榴《ざくろ》の枝葉の繁《しげ》っている地境の板塀《いたべい》のうえに、隣家の人の顔が一つ見え二つ見えして来た。そこからは庸三の坐っている部屋のなかも丸見えであった。庸三はきまりがわるくなったので、にわかに茶の間へ出て行って見た。葉子は姐御《あねご》のようなふうをして、炉側《ろばた》に片膝《かたひざ》を立てて坐っていたが、
「お前なんぞ松川さんが愛していると思ったら、飛んだ間違いだぞ。おれ今だって取ろうと思えばいつでも取ってみせる。」
 という言葉が彼の耳についた。
 するうち嵐《あらし》が凪《な》いで、書生はその辺を飛びまわっている男の子の機嫌《きげん》を取るし、色の浅黒い、目の少しぎょろりとした継母は匆々《そうそう》にお辞儀をして出て行って、葉子は子供のふざけているのに顔を崩しながら、書生たちにもお愛相よくふるまっていた。やがて書生たちも、烏賊《いか》の刺身や丸ごと盆に盛った蟹《かに》などを肴《さかな》にビールを二三杯も呑《の》んで、引き揚げていった。
 その晩、庸三が煩《うるさ》く虫の集まって来る電燈の下で、東京の新聞に送る短かいものを書いていると、その時から葉子は発熱して、茶の間の仏壇のある方から出入りのできる、店の横にある往来向きの部屋で床に就《つ》いてしまった。触ると額も手も火のように熱かった。顔も赤くほてって、目も充血していた。
「苦しい?」
「とても。熱が二度もあるのよ。それにお尻《しり》のところがひりひり刃物で突つくように痛んで、息が切れそうよ。」
「やっぱり痔瘻《じろう》だ。」
 庸三にも痔瘻を手術した経験があるので、その痛みには十分同情できた。彼女はひいひい火焔《かえん》のような息をはずませていたが、痛みが堪えがたくなると、いきなり跳《は》ねあがるように起き直った。それでいけなくなると、蚊帳《かや》から出て、縁側に立ったり跪坐《しゃが》んだりした。
 もちろんそれはその晩が初めての苦しみでもなかった。もう幾日も前から、肛門《こうもん》の痛みは気にしていたし、熱も少しは出ていたのであったが、見たところにわかに痔瘻とも判断できぬほど、やや地腫《じば》れのした、ぷつりとした小さな腫物《はれもの》であった。
「痔かも知れないね。」
 彼は言っていた。その後も時々気にはしていたが、少しくらいの発熱があっても、二人の精神的な悩みの方が、深く内面的に喰《く》いこんでいたので、愛情も何かどろどろ滓《かす》のようなものが停滞していて、葉子の心にも受けきれないほど、彼の苛《さいな》み方も深刻であった。どうかすると彼女は妹に呼ばれて離れを出て、土間をわたって母屋《おもや》の方へ出て行くこともあって、しばらく帰って来ないのであったが、帰って来たときの素振りには別に変わったところもなかった。
「私を信用できないなんて、先生もよくよく不幸な人ね。」
 葉子は言うのだったが、それかと言って、場所が場所だけに、争闘はいつも内攻的で、高い声を出して口論するということもなかった。
 やがてその痔が急激に腫れあがって、膿《うみ》をもって来たのであった。
 庸三は傍《そば》に寝そべっているのにも気がさして、蚊帳を出ようとすると、彼女は夢現《ゆめうつつ》のように熱に浮かされながら、
「もうちょっと居て……。」
 と引き止めるのであった。
 朝になると、彼女も少し落ち着いていて、狭い露路庭から通って来る涼風に、手や足やを嬲《なぶ》らせながら、うつらうつらと眠っているのだったが、それもちょっとの間の疲れ休めで、彼女がある懇意な婦人科のK氏に診《み》てもらいに行ったのは、まだ俥《くるま》でそろそろ行ける時分で、痛みも今ほど跳《と》びあがるほどではなかったし、熱も大したことはなかった。それがてっきり痔瘻だとわかったのは、その診察の結果であったが、今のうち冷し薬で腫れを散らそうというのが、差し当たっての手当であったが、腫物はかえって爛《ただ》れひろがる一方であった。そこで、今日になって葉子は別に、これも日頃懇意にしている文学好きの内科の学士で、いつか庸三をつれて病院の棟《むね》続きのその邸宅へ遊びに行ったこともある院長にも来てもらうことにした。
 その先生が病院の回診をすましてから、俥でやって来た。その時葉子の寝床は、不断母親の居間になっている、茶の間の奥の方にある中庭に臨んだ明るい六畳に移され、庸三も傍に附き添っていた。彼は診察の結果を聞いてから、ここを引き揚げたものかと独りで思い患《わずら》っていたが、痛がる下の腫物を指で押したり何かしていた院長は、
「もう膿《う》んでいる。これは痛いでしょう。」
 と微笑しながら、
「あんた手術うけたことありましたかね。」
「北海道でお乳を切ったんですのよ。また手術ですの、先生。」
「これは肛門《こうもん》周囲炎というやつですよ。こうなっては切るよりほかないでしょうね。」
「外科の病院へ行って切ったもんでしょうかね。」
「それに越したことはないが、なに、まだそう大きくもなさそうだから、Kさんにも診てもらったというなら、二人でやって上げてもいいですね。」
「局所麻酔か何かですの?」
「さあね。五分か十分|貴女《あなた》が我慢できれば、それにも及ばないでしょう。じりじり疼痛《とうつう》を我慢していることから思えば、何でもありませんよ。」
 そんな問答がしばらく続いて、結局一と思いに切ってもらうことに決定した。
「痔は切るに限るよ。僕は切ってよかったと今でも思うよ。切って駄目なものなら、切らなきゃなお駄目なんだ。じりじり追い詰められるばかりだからね。」
 何事なく言っているうちに、庸三は十二三年前に、胃腸もひどく悪くて、手術後の窶《やつ》れはてた体を三週間もベッドに仰臥《ぎょうが》していた時のことを、ふと思い出した。十三の長男と十一の長女とが、時々見舞いに来てくれたものだが、衰弱が劇《はげ》しいので、半ば絶望している人もあった。神に祈ったりしていたその長女は、それから一年もたたないうちに死んでしまった。心配そうな含羞《はにか》んだようなその娘の幼い面影が、今でもそのまま魂のどこかに烙《や》きついていた。もしも彼女が生きていたとしたら、母の死の直後に起こった父親のこんな事件を、何と批判したであろうか。生きた子供よりも死んだ子供の魂に触れる感じの方が痛かった。それに比べれば、二十五年の結婚生活において、妻の愛は割合|酬《むく》いられていると言ってよかった。
 翌日になって、三時ごろに二人打ち連れて医師がやって来た。彼らはさも気易《きやす》そうな態度で、折鞄《おりかばん》に詰めて来た消毒器やメスやピンセットを縁側に敷いた防水布の上にちかちか並べた。夏もすでに末枯《うらが》れかけたころで、ここは取分け陽《ひ》の光にいつも翳《かげ》があった。その光のなかで荒療治が行なわれた。
 庸三はドクトルの指図《さしず》で、葉子の脇腹《わきばら》を膝《ひざ》でしかと押えつける一方、両手に力をこめて、腿《もも》を締めつけるようにしていたが、メスが腫物を刳《えぐ》りはじめると、葉子は鋭い悲鳴をあげて飛びあがろうとした。
「痛た、痛た、痛た。」
 瞬間|脂汗《あぶらあせ》が額や鼻ににじみ出た。メスをもった婦人科のドクトルは驚いて、ちょっと手をひいた。――今度は内科の院長が、薔薇色《ばらいろ》の肉のなかへメスを入れた。葉子は息も絶えそうに呻吟《うめ》いていたが、面《おもて》を背向《そむ》けていた庸三が身をひいた
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