夫婦も先生んとこ出ちゃいけないと言うんですの。――ここの御主人、先生のことよく知ってますわ。死んだ親爺《おやじ》さんは越後《えちご》の三条の人で、呉服物をもってよく先生のとこへ行ったもんだそうですよ。その人は亡くなって、息子《むすこ》さんが今の主人なんですの。」
「色の白い、温順《おとな》しい……。」
「いい人よ。」
「君はまたどうして……。」
「ここ秋本さんの宿ですもの。あの人に短歌の整理をしてもらったり何かしたのも、ここですもの。」
庸三はある時は子息《むすこ》をつれて、しばしば重い荷物を持ち込んで来た、越後らしいごつい体格のあの商人を思い出したが、同時にあの貴公子風の情熱詩人と葉子との、ここでのロオマンスを想像してみた。それにしては現実の背景が少し貧弱で、何か物足りない感じであった。やがて圧倒的な、そして相当|狡獪《こうかい》な彼の激情に動かされて、とにかく葉子は帰ることに決めた。
「じゃ、もうちょっとしたら行きます。きっと行くわ。」
「そう。」
葉子は顔を熱《ほて》らせていた。そして庸三が出ようとすると壁際《かべぎわ》にぴったり体を押しつけて立っていながら、「唇《くちびる》
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