を! 唇を!」と呼んだ。
 庸三は小返《こがえ》りした。

 葉子が車でやって来たのは、庭の隅《すみ》にやや黄昏《たそがれ》の色の這いよる時分で、見にやった庸太郎を先立ちに、彼女は手廻りのものを玄関に運ばせて、瑠美子をつれて上がって来た。
「庸太郎さんとお茶を呑《の》んだりしていたもんですから……。それからこんなものですけれど、もしよかったらこの部屋にお敷きになったらどうかと思って……。」
 葉子はそう言って、持って来た敷物を敷いてみた。
「どうです、このネクタイ!」
 縁側では、子供が葉子に買ってもらった、仏蘭西製《フランスせい》の派手なネクタイを外光に透かして見ていた。
 学校が休みになると、子供は挙《こぞ》って海へ行った。瑠美子も仲間に加わらせた。
 読んだり書いたり、映画を見たりレコオドを聴《き》いたり、晩は晩で通りの夜店を見に行ったり、時とすると上野辺まで散歩したり――しかしこの生活がいつまで続くかという不安もあって……続けば続く場合の不安もあって、庸三の心はとかく怯《おび》えがちであった。すべての人生劇にとっても、困難なのはいずれ大詰の一幕で、歴史への裁断のように見通しはつ
前へ 次へ
全436ページ中94ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング