私を見棄《みす》てないでね。」
四月の風の荒いある日、玄関に人があって、出て行った葉子はやがてのこと、ちょっとした結び文《ぶみ》を手にして引き返して来た。彼女はそれを読むと、たちまち驚きの色を浮かべた。
「どうしたというんでしょう、あの男が来たのよ。」
それが北海道で破産したという松川であった。
「湯島の宿にいるのよ。すぐ立つんだから、ちょっとでいいから逢ってくれないかと言うんですけれど……。行かないわ、私。」
庸三は頭が重苦しくなって来た。どうにもならなくなって、田端へ来て身を潜めていた彼が、三人の子供と一緒に再び北海道へ帰って行ってから、もう二年近くになった。その間にいろいろの変化が葉子の身のうえにあった。葉子が田端の家ですっかり行き窮《づま》ってしまった結婚生活を清算して子供にも別れたのは、その年の大晦日《おおみそか》の除夜の鐘の鳴り出した時であった。彼女は子供たちを風呂《ふろ》へ入れてから旅の支度《したく》をさせた。しばしば葉子は忘れがたいその一夜のことを話しては泣くのだった。
「でも私からは遠い子供たちですのよ、あの人たちはあの人たちでどうにかなって行くでしょうよ。思っ
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