かっ詰まったお鈴という女中だけであった。後に女中の手が殖《ふ》えて来たけれど、お鈴は加世子の生きている時からの仕来《しきた》りを、曲りなりにも心得ていて、どこに何が仕舞ってあるのかもよく知っていた。しかし加世子も気づいていた持前の偸《ぬす》み癖がだんだん無遠慮になって来たところで、それもいつか遠ざけてしまった。
 ある小雨《こさめ》のふる日、葉子は顔を作って、地紋の黒い錦紗《きんしゃ》の紋附などを着て珍らしく一人で外出した。
「私写真|撮《と》りに行ってもいい?」
 彼女は庸三の机の側へ来て言った。
「いいとも。どこで……。」
「銀座の曽根《そね》といって、素晴らしい芸術的な写真撮るところよ。すぐ帰って来るわ。先生|家《うち》にじっとしていなきゃいや。きっとよ。じゃあ、げんまん!」
 そういう場合、大抵|接吻《せっぷん》と指切りを抵《かた》において行くのが、思いやりのある彼女の手であった。庸三は昔、下宿時代に遊びに行って、女が他の部屋へまわる時、縞《しま》お召の羽織をそこへ置いて行かれると、それが何かの気安めになったことを思い出したが、しかしその時は、どうかすると胡散《うさん》くさい彼
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