ようなどとは夢にも思いつかなかった。
翌日松川が返辞をききに来た時、夫人が文学道に踏み出すことは、事によると家庭を破壊することになりはしないかという警告を与えて帰したのだったが、その時大学構内の池の畔《ほとり》で子供と一緒に、原稿の運命を気遣《きづか》っていた妻の傍《そば》へ寄って行った葉子の良人《おっと》は、彼女の自尊心を傷つけるのを虞《おそ》れて、用心ぶかく今の成行きを話したものらしかった。
「葉子、お前決して失望してはいけないよ。ただあの原稿が少し奔放すぎるだけなんだよ。文章も今一と錬《ね》り錬らなくちゃあ。」
葉子は無論失望はしなかった。そしてその翌日独りで再び庸三の書斎に現われた。
「あれは大急ぎで書きあげましたの。字も書生が二三人で分担して清書したのでございますのよ。いずれ書き直すつもりでおりますのよ。――あれが出ませんと土地の人たちに面目《めんぼく》がございませんの。もう立つ前に花々しく新聞に書きたててくれたくらいなものですから。」
夫人は片手を畳について、少し顔を熱《ほて》らせていた。
庸三夫婦は気もつかずにいたが、彼女はその時妊娠八カ月だった。そして一度|小樽
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