《がっこつ》のあたりを、辛うじて見ることができたが、時々そっちへ惹き着けられている葉子の目も何となく彼の感じに通った。やがて休憩時間がおわった時、二人の横を通って座席に帰って行く夫人と葉子と挨拶を交した。
 静粛な演奏会がやがて終りを告げたところで、庸三は聴衆の雪崩《なだ》れにつれて、ずんずん廊下へ出たが、振りかえってみると葉子の姿が見えなかった。多分オーケストラ・ボックスの脇《わき》を通って、南側の廊下へでも出たのだろうと思って、その方へも行ってみたが、そのころにはそこにもすでに人影もみえなかった。しかし葉子が角のところへ姿を現わし、彼を呼んでいたのもその瞬間であった。
「私さっきから先生を捜していたのよ。立ちがけにちょっとあの人たちに挨拶している間に、ぐんぐん行っちゃって……。」

 後に左翼代議士の暗殺された神田の下宿は、葉子にも庸三にも不思議な因縁があった。というのは、大新聞に小説でも書くようになった暁には、庸三の傍《そば》を離れて、結婚生活に入りどこか静かな郊外で農園をもち、そこに愛の巣を営む約束で一年間月々生活費を送っていた秋本の定宿も、今はバラック建のその下宿であったが、
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