んも沢山あるのだから、もうお母さんのことを言ってはいけない。その代り貴女《あなた》には兄さんも姉さんも多勢いるのだと、庸三が一度言って聞かすとそれきりふっつり母のことは口へ出さなくなってしまった。しかしどうかするとむずかるらしく、剪刀《ナイフ》を投げられたりするから、あれは直さなければと葉子は笑いながら庸三に話すのであった。
「おばちゃんの足|綺麗《きれい》ね。」
 風呂で彼女は葉子の足にさわりながら言うのだったが、夜は葉子に寝かしつけられて、やっと寝つくことも多かった。彼女は茶の間や納戸《なんど》に、人知れずしばしば母を捜したに違いないのであった。しかし庸三は、自分の不注意で、一夜のうちに死んでしまった長女のことを憶《おも》うと、我慢しなければならなかった。恋愛にも仕事にも、ロオマンチックにも奔放にもなれない、臆病《おくびょう》にかじかんだ彼は、子供を突き放すこともできない代りに身をもって愛するということもできなかったが、生涯のこととか教育のこととか、一貫した誠意や思慮を要する問題は別として、差し当たり日常の家庭にできた空洞《くうどう》は、どこにも捻くれたところのない葉子が一枚加わっ
前へ 次へ
全436ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング