三にはそれが誰だか解《わか》るわけもなかった。一色じゃないかと聞くと、あの人には細君のほかに、何か古くからの有閑夫人もあるからと言うのだった。
「先生がそんなこと心配なさらなくともいいのよ。お気持悪ければいつでも清算することになっていますのよ。」
「もしかしてここへ来たら。」
「あの人決してそんなことしない人よ。」
葉子は黒繻子《くろじゅす》の襟《えり》のかかった、綿のふかふかする友禅メリンスの丹前を着て机の前に坐っていたが、文房具屋で買った一輪|挿《ざ》しに、すでに早い花が生かっていて、通りの電車や人の跫音《あしおと》が何か浮き立っていた。彼女はよく庸三の家の日当りのいい端の四畳半へ入って、すっかり彼女に懐《なつ》いてしまった末の娘と遊んだものだが、一緒に風呂《ふろ》へも入って、頸《えり》を剃《そ》ってやったり、爪《つめ》を切ったりした。クリームや白粉《おしろい》なども刷《は》いてやるのだった。九つになったばかりの咲子は、母の納まっている長い棺の下へ潜《もぐ》りこんで、母を捜そうとして不思議そうに棺の底を眺めるのだったが、お母さんにはもう逢《あ》えないのだし、世間にはそういう子供さ
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