ない?」
「先生のお仕事のお邪魔にならないようでしたら、すぐ行きますわ。」
 三十分するかしないうちに、海松房《みるぶさ》模様の絵羽の羽織を着た葉子が、廊縁《ろうべり》の籐椅子《とういす》にかけて、煙草《たばこ》をふかしている彼のすぐ目の下の庭を通って、上がって来た。行きつけの美容院へ行って、すっかりお化粧をして来たものらしく、彼女の顔の白さが薄闇《うすやみ》のなかに匂いやかに仄《ほの》めいた。

 ある日も庸三は葉子の部屋にいた。そこは他の部屋と懸《か》け離れた袋地のようなところで、廊下をばたばたするスリッパの音も聞こえず、旅宿人に顔を見られないで済むような部屋だった。寺の境内の立木の蔭《かげ》になっている窓に、彼女は感じの好い窓帷《カアテン》の工夫をしたりして、そこに机や本箱を据《す》えた。その部屋で、彼女のさまざまの思い出話を聞いたり、文学の話をしていると五時ごろにお寺の太鼓が鳴り出して、夜が白々と明けて来るので、びっくりして寝床へ入ることもあった。二三年したら結婚することになっている人が一人あるにはあるが、それを今考えることはないのだと、彼女は何かの折に言ったことがあったが、庸
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