。
庸三はホテルのサルンへ顔出しするのも憚《はば》かられたが、ちょうど空腹も感じていたので、しばらくぶりで食堂へ入ってみたくもなった。ホテルではラジオも聞けたし、註文《ちゅうもん》すればバスも用意してくれた。
恋愛事件前後、瑠美子は師匠のところへ還《かえ》っていた。二人は内から門に錠をおろして、地続きの隣りの木戸から出た。そして砂地の道を横切ってだらだらした坂をのぼると、そこがホテルの玄関であった。ラジオは洋楽の演奏であった。庸三は震災前に、庸太郎によってやっと世界の偉大な音楽家の名や曲目を覚えはじめ、子供の時から聞き馴染《なじ》んで来た義太夫《ぎだゆう》や常磐津《ときわず》が、ビゼイやモツアルトと交替しかけていた時分だったが、この音楽ほど新旧の時代感覚を分明に仕切っているものはなかった。
食堂の開くのにはまだ少し間があった。庸三はサルンの片隅《かたすみ》に椅子《いす》を取ったが、葉子も少し離れたところで、ラジオを聴《き》いていた。彼女は何かしらトリオらしい室内楽の美しい旋律のなかから、自身の夢想を引き出そうとするように耳を聳《そばだ》てていたが、楽器の音を聴いていると、少し頭脳
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