三と悪気のない挨拶《あいさつ》を交すと、間もなく姿を消した。
「さあ梢さん、貴女《あなた》はこっちがいい。」
 小肥《こぶと》りに肥った丸顔の木元主任は、葉子を大きい肱掛《ひじか》け椅子に腰かけさせた。彼は初めて見る葉子の美しさに魅せられた形で、
「いや、世間から何といわれても、貴方《あなた》は幸福ですよ。」
 と庸三にそっと呟《つぶや》いた。庸三は、これもずっと後に葉子が銀座の酒場へ現われたとき、この男も定連の一人で、何か葉子の親切な相談相手になってやっているという噂を耳にしたけれど、何か微笑《ほほえ》ましい感じで、いやな気持がしなかった。
 葉子も主任の問いに答えて、彼女一流の雰囲気《ふんいき》の含まれた言葉で、恋愛も恋愛だが、生活や母性愛の悩みもあって、今までの生活は行き塞《づ》まりが来たので、打開の道を求めようとしたのが、何といっても文学が生命なのだし、新しい結婚問題がどうなるにしても、やはり庸三に頼って行くよりほかないのだといった意味を述べていた。彼女は黒い羽織で顔の輪廓《りんかく》がひとしお鮮かで、頬《ほお》まで垂れた黒髪の下から、滑《なめ》らかな黒耀石《こくようせき》のよ
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