かった。

 今庸三は文字どおり胸のときめくようなある一夜を思い出した。
 その時庸三は、海風の通って来る、ある郊外のコッテイジじみたホテルへ仕事をもって行こうとして、ちょうど彼女がいつも宿を取っていた近くの旅館から、最近母を亡くして寂しがっている庸三の不幸な子供達の団欒《だんらん》を賑《にぎ》わせるために、時々遊びに来ていた彼女――梢《こずえ》葉子を誘った。
 庸三は松川のマダムとして初めて彼女を見た瞬間から、その幽婉《ゆうえん》な姿に何か圧倒的なものを仄《ほの》かに感じていたのではあったが、彼女がそんなに接近して来ようとは夢にも思っていなかった。松川はその時お召ぞっきのぞろりとした扮装《ふんそう》をして、古《いにし》えの絵にあるような美しい風貌《ふうぼう》の持主であったし、連れて来た女の子も、お伽噺《とぎばなし》のなかに出て来る王女のように、純白な洋服を着飾らせて、何か気高い様子をしていた。手狭な悒鬱《うっとう》しい彼の六畳の書斎にはとてもそぐわない雰囲気《ふんいき》であった。彼らは遠くからわざわざ長い小説の原稿をもって彼を訪ねて来たのであった。それは二年前の陽春の三月ごろで、庸三
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