性を択《えら》ぶのに、便利な立場にある花柳界の女たちを羨《うらや》ましく思ったわけだったが、彼によって紹介された山の手のカフエへ現われるようになってから、彼女の気分もいくらか晴々して来た。
持越しの長篇が、松川の同窓であった、ある大新聞の経済記者などの手によって、文章を修正され、一二の出版|書肆《しょし》へまわされた果てに、庸三のところへ出入りしている、若い劇作家であり、出版屋であった一色《いっしき》によって本になったのも、ちょうどそのころであった。ある晩偶然に一色と葉子が彼の書斎で、初めて顔を合わした。一色はにわかに妻を失って途方にくれている庸三のところへ、葬儀の費用として、大枚の札束を懐《ふとこ》ろにして来て、「どうぞこれをおつかいなすって」と事もなげな調子で、そっと襖《ふすま》の蔭《かげ》で手渡しするようなふうの男だったので、たちどころに数十万円の資産を亡くしてしまったくらいなので、庸三がどうかと思いながら葉子の原稿の話をすると、言い出した彼が危ぶんでいるにもかかわらず、二つ返辞で即座に引き受けたものだった。
「拝見したうえ何とかしましょう。さっそく原稿をよこして下さい。」
ちょうど卓を囲んで、庸三夫婦と一色と葉子とが、顔を突きあわせている時であったが、間もなく一色と葉子が一緒に暇《いとま》を告げた。
「あの二人はどうかなりそうだね。」
「かも知れませんね。」
後で庸三はそんな気がして、加世子と話したのであったが、そのころ葉子はすでに良人《おっと》や子供と別れ田端の家を引き払って、牛込《うしごめ》で素人家《しろうとや》の二階に間借りすることになっていた。美容術を教わりに来ていた彼女の妹も、彼女たちの兄が学生時代に世話になっていたというその家に同棲《どうせい》していた。葉子は一色の来ない時々、相変らずそこからカフエに通っているものらしかったが、それが一色の気に入らず、どうかすると妹が彼女を迎いに行ったりしたものだが、浮気な彼女の目には、いつもそこに集まって陽気に燥《はしゃ》いでいる芸術家仲間の雰囲気《ふんいき》も、棄《す》てがたいものであった。
庸三は耳にするばかりで、彼女のいるあいだ一度もそのカフエを訪ねたことがなかった。それに連中の間を泳ぎまわっている葉子の噂《うわさ》もあまり香《かん》ばしいものではなかった。
加世子の訃音《ふいん》を受け取った葉子が、半年の余も閉じ籠《こ》もっていた海岸の家を出て、東京へ出て来たのは、加世子の葬式がすんで間もないほどのことであった。
加世子はその一月の二日に脳溢血《のういっけつ》で斃《たお》れたのだったが、その前の年の秋に、一度、健康そうに肥《ふと》った葉子が久しぶりにひょっこり姿を現わした。彼女は一色とそうした恋愛関係をつづけている間に、彼を振り切って、とかく多くの若い女性の憧《あこが》れの的であった、画家の山路草葉《やまじそうよう》のもとに走った。そして一緒に美しい海のほとりにある葉子の故郷の家を訪れてから、東京の郊外にある草葉の新らしい住宅で、たちまち結婚生活に入ったのだった。この結婚は、好感にしろ悪感にしろ、とにかく今まで彼女の容姿に魅惑を感じていた人たちにも、微笑《ほほえ》ましく頷《うなず》けることだったに違いなかった。
葉子は江戸ッ児《こ》肌《はだ》の一色をも好いていたのだったが、芸術と名声に特殊の魅力を感じていた文学少女型の彼女のことなので、到頭出版されることになった処女作の装釘《そうてい》を頼んだのが機縁で、その作品に共鳴した山路の手紙を受け取ると、たちどころに吸いつけられてしまった。これこそ自分がかねがね捜していた相手だという気がした。そしてそうなると、我慢性のない娘が好きな人形を見つけたように、それを手にしないと承知できなかった。自分のような女性だったら、十分彼を怡《たの》しませるに違いないという、自身の美貌《びぼう》への幻影が常に彼女の浮気心を煽《あお》りたてた。
ある夜も葉子は、山路と一緒に大川|畔《ばた》のある意気造りの家の二階の静かな小間で、夜更《よふ》けの櫓《ろ》の音を聴《き》きながら、芸術や恋愛の話に耽《ふけ》っていた。故郷の彼女の家の後ろにも、海へ注ぐ川の流れがあって、水が何となく懐かしかった。葉子は幼少のころ、澄んだその流れの底に、あまり遠く押し流されないように紐《ひも》で体を岸の杭《くい》に結わえつけた祖母の死体を見た時の話をしたりした。年を取っても身だしなみを忘れなかった祖母が、生きるのに物憂《ものう》くなっていつも死に憧れていた気持をも、彼女一流の神秘めいた詞《ことば》で話していた。庸三の子供が葉子を形容したように彼女は鳥海山《ちょうかいさん》の谿間《たにま》に生えた一もとの白百合《しらゆり》が、どうかしたはずみに、材木か何
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