仮装人物
徳田秋声

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)庸三《ようぞう》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一度|小樽市《おたるし》へ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、146−上−18]
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      一

 庸三《ようぞう》はその後、ふとしたことから踊り場なぞへ入ることになって、クリスマスの仮装舞踏会へも幾度か出たが、ある時のダンス・パアティの幹事から否応《いやおう》なしにサンタクロオスの仮面を被《かぶ》せられて当惑しながら、煙草《たばこ》を吸おうとして面《めん》から顎《あご》を少し出して、ふとマッチを摺《す》ると、その火が髯《ひげ》の綿毛に移って、めらめらと燃えあがったことがあった。その時も彼は、これからここに敲《たた》き出そうとする、心の皺《しわ》のなかの埃塗《ほこりまぶ》れの甘い夢や苦い汁《しる》の古滓《ふるかす》について、人知れずそのころの真面目《まじめ》くさい道化姿を想《おも》い出させられて、苦笑せずにはいられなかったくらい、扮飾《ふんしょく》され歪曲《わいきょく》された――あるいはそれが自身の真実の姿だかも知れない、どっちがどっちだかわからない自身を照れくさく思うのであった。自身が実際首を突っ込んで見て来た自分と、その事件について語ろうとするのは、何もそれが楽しい思い出になるからでもなければ、現在の彼の生活環境に差し響きをもっているわけでもないようだから、そっと抽出《ひきだ》しの隅《すみ》っこの方に押しこめておくことが望ましいのであるが、正直なところそれも何か惜しいような気もするのである。ずっと前に一度、ふと舞踏場で、庸三は彼女と逢《あ》って、一回だけトロットを踊ってみた時、「怡《たの》しくない?」と彼女は言うのであったが、何の感じもおこらなかった庸三は、そういって彼を劬《いた》わっている彼女を羨《うらや》ましく思った。彼は癒《い》えきってしまった古創《ふるきず》の痕《あと》に触わられるような、心持ち痛痒《いたがゆ》いような感じで、すっかり巷《ちまた》の女になりきってしまって、悪くぶくぶくしている彼女の体を引っ張っているのが物憂《ものう》かった。

 今庸三は文字どおり胸のときめくようなある一夜を思い出した。
 その時庸三は、海風の通って来る、ある郊外のコッテイジじみたホテルへ仕事をもって行こうとして、ちょうど彼女がいつも宿を取っていた近くの旅館から、最近母を亡くして寂しがっている庸三の不幸な子供達の団欒《だんらん》を賑《にぎ》わせるために、時々遊びに来ていた彼女――梢《こずえ》葉子を誘った。
 庸三は松川のマダムとして初めて彼女を見た瞬間から、その幽婉《ゆうえん》な姿に何か圧倒的なものを仄《ほの》かに感じていたのではあったが、彼女がそんなに接近して来ようとは夢にも思っていなかった。松川はその時お召ぞっきのぞろりとした扮装《ふんそう》をして、古《いにし》えの絵にあるような美しい風貌《ふうぼう》の持主であったし、連れて来た女の子も、お伽噺《とぎばなし》のなかに出て来る王女のように、純白な洋服を着飾らせて、何か気高い様子をしていた。手狭な悒鬱《うっとう》しい彼の六畳の書斎にはとてもそぐわない雰囲気《ふんいき》であった。彼らは遠くからわざわざ長い小説の原稿をもって彼を訪ねて来たのであった。それは二年前の陽春の三月ごろで、庸三の庭は、ちょうどこぶし[#「こぶし」に傍点]の花の盛りで、陰鬱《いんうつ》な書斎の縁先きが匂いやかな白い花の叢《くさむら》から照りかえす陽光に、春らしい明るさを齎《もたら》せていた。
 庸三は部屋の真中にある黒い卓の片隅《かたすみ》で、ぺらぺらと原稿紙をめくって行った。原稿は乱暴な字で書きなぐられてあったが、何か荒い情熱が行間に迸《ほとばし》っているのを感じた。
「大変な情熱ですね。」
 彼は感じたままを呟《つぶや》いて、後で読んでみることを約束した。
「大したブルジョウアだな。」
 彼はそのころまだ生きていて、来客にお愛相《あいそ》のよかった妻に話した。作品もどうせブルジョウア・マダムの道楽だくらいに思って、それには持前の無精も手伝い、格にはまらない文章も文字も粗雑なので、ただ飛び飛びにあっちこっち目を通しただけで、通読はしなかったが、家庭に対する叛逆《はんぎゃく》気分だけは明らかに受け取ることができた。彼は多くの他の場合と同じく、この幸福そうな若い夫婦たちのために、躊躇《ちゅうちょ》なく作品を否定してしまった。物質と愛に恵まれた夫婦の生活が、その時すでに破産の危機に瀕《ひん》してい
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