ようなどとは夢にも思いつかなかった。
 翌日松川が返辞をききに来た時、夫人が文学道に踏み出すことは、事によると家庭を破壊することになりはしないかという警告を与えて帰したのだったが、その時大学構内の池の畔《ほとり》で子供と一緒に、原稿の運命を気遣《きづか》っていた妻の傍《そば》へ寄って行った葉子の良人《おっと》は、彼女の自尊心を傷つけるのを虞《おそ》れて、用心ぶかく今の成行きを話したものらしかった。
「葉子、お前決して失望してはいけないよ。ただあの原稿が少し奔放すぎるだけなんだよ。文章も今一と錬《ね》り錬らなくちゃあ。」
 葉子は無論失望はしなかった。そしてその翌日独りで再び庸三の書斎に現われた。
「あれは大急ぎで書きあげましたの。字も書生が二三人で分担して清書したのでございますのよ。いずれ書き直すつもりでおりますのよ。――あれが出ませんと土地の人たちに面目《めんぼく》がございませんの。もう立つ前に花々しく新聞に書きたててくれたくらいなものですから。」
 夫人は片手を畳について、少し顔を熱《ほて》らせていた。
 庸三夫婦は気もつかずにいたが、彼女はその時妊娠八カ月だった。そして一度|小樽市《おたるし》へ引き返して、身軽になってから出直して来るように言っていたが、庸三も仕方なく原稿はそれまで預かることにしたのであった。
 その原稿が彼女たちの運命にとって、いかに重大な役目を持ったものであるかが、その秋破産した良人や子供たちとともに上京して、田端《たばた》に世帯《しょたい》をもつことになった葉子の話で、だんだん明瞭《めいりょう》になったわけだったが、そっちこっちの人の手を巡《めぐ》って、とにかくそれがある程度の訂正を経て、世のなかへ送り出されることになったのは、それからよほど後のことであった。ある時は庸三と、庸三がつれて行って紹介した流行作家のC氏と二人で、映画会社のスタジオを訪問したり、ある時はまた震災後の山の手で、芸術家のクラブのようになっていた、そのころの尖端的《せんたんてき》な唯一のカフエへ紹介されて、集まって来る文学者や画家のあいだに、客分格の女給見習いとして、夜ごと姿を現わしたりしていたものだったが、彼女はとっくに裸になってしまって、いつも妹の派手なお召の一張羅《いっちょうら》で押し通していた。ぐたぐたした派手なそのお召姿が、時々彼の書斎に現われた。彼女夫婦の没落の過程、最近死んだ父の愛娘《まなむすめ》であった彼女の花々しかった結婚式、かつての恋なかであり、その時の媒介者であった彼女の従兄《いとこ》の代議士と母と新郎の松川と一緒に、初めて落ち着いた松川の家庭が、思いのほか見すぼらしいもので、押入を開けると、そこには隣家の灯影《ほかげ》が差していたこと、行くとすぐ、そっくり東京のデパアトで誂《あつら》えた支度《したく》が、葉子も納得のうえで質屋へ搬《はこ》ばれてしまったこと、やっと一つ整理がついたと思うと、後からまた別口の負債が出て来たりして、二日がかりで町を騒がせたその結婚が、初めから不幸だったことなどが、来るたびに彼女の口から話された。美貌《びぼう》で才気もある葉子が、どうして小樽くんだりまで行って、そんな家庭に納まらなければならなかったか。もちろん彼女が郷里で評判のよかった帝大出の秀才松川の、町へ来た時の演説と風貌に魅惑を感じたということもあったであろうが、父が望んでいたような縁につけなかったのは、多分女学生時代の彼女のロオマンスが祟《たた》りを成していたものであろうことは、ずっと後になってから、迂闊《うかつ》の庸三にもやっと頷《うなず》けた。
「私たちを送って来た従兄は、一週間も小樽に遊んでいましたの。自棄《やけ》になって毎日芸者を呼んで酒浸しになっていましたの。」
 彼女は涙をこぼした。
「このごろの私には、いっそ芸者にでもなった方がいいと思われてなりませんの。」
 戦争景気の潮がやや退《ひ》き加減の、震災の痛手に悩んでいた復興途上の東京ではあったが、まだそのころはそんなに不安の空気が漂ってはいなかった。
 多勢《おおぜい》の子供に取りまかれながら、じみな家庭生活に閉じ籠《こ》もっていた庸三は、自分の畑ではどうにもならないことも解《わか》っていたし、こうした派手々々しい、若い女性のたびたびの訪問に、二人きりの話の持ちきれないことや、襖《ふすま》一重の茶の間にいる妻の加世子《かよこ》にもきまりの悪いような気がするので、少し金まわりの好い文壇の花形を訪問してみてはどうかと、葉子に勧めたこともあった。葉子もそれを悦《よろこ》んだ。そしてだんだん渡りをつけて行ったが、それかと言って、何のこだわりもなく社交界を泳ぎまわるというほどでもなかった。
「……それにこれと思うような人は、みんな奥さん持ちですわ。」
 そこで彼女は異
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