るように、立ったり坐ったりしているのだったが、庸三はそのころから身のまわりのものを何かとよく整理しておく咲子のものを分けさせる代りに、瑠美子には別に同じようなものを買ってやった方がいいと思っていた。
死んだ姉から持越しの、咲子にとっては何より大切な大きい人形がまた瑠美子を寂しがらせ、母親の心を暗くした。
「先生のお子さんで悪いけれど、咲子さん少しわがままよ。あれを直さなきゃ駄目だと思うわ。」
「君が言えば聴《き》くよ。」
庸三は答えたが、彼自身の気持から言えば、死んだ久美子の愛していた人形を、物持ちのいいとは思えない瑠美子に弄《いじ》らせたくはなかったので、ある日葉子に瑠美子をつれてデパアトへ買いものに行ったついでに、中ぐらいの人形を瑠美子に買ってやった。咲子のより小さいので、葉子も瑠美子も悦《よろこ》ばなかったが、庸三はそれでいいというふうだった。
庸三はずっと後になるまで――今でも思い出して後悔するのだが、ある日葉子と子供たちを連れ出して、青葉の影の深くなった上野を散歩して、動物園を見せた時であった。そのころ父親の恋愛事件で、学校へ通うのも辛《つら》くなっていた長女も一緒だったが、ふと園内で出遭《であ》った学友にも、面を背向《そむ》けるようにしているのを見ると、庸三も気が咎《とが》めてにわかに葉子から離れて独りベンチに腰かけていた。と、それよりもその時に限って、何かめそめそして不機嫌《ふきげん》になった咲子を見ると、初めは慈愛の目で注意していたが、到頭|苛々《いらいら》して思わず握り太な籐《とう》のステッキで、後ろから頭をこつんと打ってしまったのであった。
それから間もなく、ある朝庸三が起きて茶の間へ出ると、子供はみんな出払って、葉子が独り火鉢《ひばち》の前にいた。細かい羽虫が軒端《のきば》に簇《むら》がっていて、物憂《ものう》げな十時ごろの日差しであった。いつもの癖で、起きぬけの庸三は顔の筋肉の硬《こわ》ばりが釈《と》れず、不機嫌《ふきげん》そうな顔をして、長火鉢の側へ来て坐っていた。子供の住居《すまい》になっている裏の家へ行っていると見えて、女中の影も見えなかった。が葉子は何か落ち着かぬふうで、食卓のうえに朝飯の支度《したく》をしていた。瑠美子はどうしたかと思っていると、大分たってから、腰障子で仕切られた四畳半から、母を呼ぶ声がした。葉子は急いで傍へ行って着物を着せ茶の間へつれ出して来た。
「おじさんにお早ようするのよ。」
瑠美子は言う通りにした。
「寝坊だな。」
庸三は言ったきり、むっつりしていた。葉子はちょっと台所へ出て行ったが、間もなく傍へ来て坐った。かと思うと、また立って行った。庸三は何かお愛相《あいそ》の好い言葉をかけなければならないように感じながら、わざとむっつりしていた。そして瑠美子が箸《はし》を取りあげるのを汐《しお》に、見ているのが悪いような気もして、やがて立ちあがった。そして机の前へ来て煙草《たばこ》をふかしていた。と、いきなり葉子が転《ころ》がるように入って来たと思うと、袂《たもと》で顔を蔽《おお》って畳に突っ伏して泣き出した。彼女は肩を顫《ふる》わせ、声をあげて泣きながら、さっきから抑え抑えしていた不満を訴えるのだった。
「先生という人は何て冷たい人間なんでしょう。先生が気むずかしい顔だから、私がはらはらして瑠美子にお辞儀をさせても、先生はまるで凍りついたような表情をして、笑顔《えがお》一つ見せてくれようとはしないんです。あの幼い人が先生の顔を見い見いして神経をつかっているのに、先生は路傍の人の態度で外方《そっぽ》むいているじゃありませんか。私は心が暗くなって、幾度となく台所へ出て涙を拭《ふ》き拭きしていたのでした。私たち母子《おやこ》は先生のところのお茶|貰《もら》いになぞなりたくはありません。」
葉子は途切れ途切れに言って、激情に体を戦《おのの》かせていた。庸三は驚き傍《そば》へ寄って、宥《なだ》めの言葉をかけたが、効《かい》がなかった。起きあがったと見ると、次の間で箪笥《たんす》の前に立って何かがたがたやっていたが、そのまま瑠美子を引っ張って、旋風のごとく玄関へ飛び出した。
少し狼狽《ろうばい》して、庸三は出て見たが、「二度と己《おれ》の家の閾《しきい》を跨《また》ぐな」と尖《とが》った声を浴びせかけて、ぴしゃりと障子を締め切った。
やがて学校を退《ひ》けて来た咲子が、部屋から部屋を捜しあるいた果てに、父の書斎へ来て寂しそうに立っていた。庸三は何かせいせいした感じでもあったが、寂しさが次第に胸に這《は》いひろがって来た。彼女の憤りを爆発させた今朝の態度の不覚を悔いてもいた。
「おばちゃんは?」
「おばちゃんは出て行った。」
「瑠美子ちゃんも?」
「そう。」
「もう帰ってこ
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