ないの。」
「帰ってこないよ。」
庸三は言ったが、どこかそこいらを歩いている親子の姿が見えるように思えてならなかった。
しばらくすると彼は寂しそうにしている咲子の手をひいて、ふらりと外へ出て行った。
七
街《まち》はどこもかしこも墓地のように寂しかった。目に映るもののすべてが――軒を並べている商店も、狭い人道をせせっこましく歩いている人間も、ごみごみして見えた。往《ゆ》き逢《あ》う女たちの顔も石塊《いしころ》のように無表情だった。ちょうどそれは妻を失った間際《まぎわ》の味気ない感じを、もう一つ掘りさげたような侘《わび》しさで、夏の太陽の光りさえどんよりしていた。新芽を吹くころの、または深々と青さを増して行くころの、それから黄金色《こがねいろ》に黄ばんだ初冬の街路樹の銀杏《いちょう》を、彼はその時々の思いで楽しく眺めるのだったが、今その下蔭《したかげ》を通ってそういう時の快い感じも、失われた生の悦《よろこ》びを思い返させるに役立つだけのようであった。もう長いあいだ二十年も三十年もの前から慢性の神経衰弱に憑《つ》かれていて、外へ出ても、街の雑音が地獄の底から来るように慵《ものう》く聞こえ、たまたま銀座などへ出てみても目がくらくらするくらいであったが、葉子と同棲《どうせい》するようになってからは、彼は何か悽愴《せいそう》な感じと悲痛の念で、もしもこんなことが二年も三年も続いたならと、そぞろに灰色の人生を感ずるのであったが、しかし自身の生活力に信用がおけないながらに、ぶすぶす燃える情熱は感じないわけにいかなかった。異性の魅力――彼はそれを今までそんなに感じたこともなかったし、執着をもったこともなかった。
「おばちゃんどこへ行ったの?」
咲子がきいた。
「さあね。」
ちょうど彼女が宿泊していた旅館の前も通りすぎて、彼は三丁目の交叉点《こうさてん》へ来ていた。旅館の前を通る時、そこの二階の例の部屋に彼女と子供がいるような気もして、帳場の奥へ目をやって見たのであったが、そこを通りすぎて一町も行ったところで、ちょうどその時お馴染《なじみ》の小女が向うから来てお辞儀をした。彼女も葉子と同じ郷里の産まれで、髪を桃割に結って小ばしこそうに葉子の用を達《た》していたものだが、お膳《ぜん》を下げたりするついでに、そこに坐りこんで、小説や映画の話をしたがるのであった。後に葉子ともすっかり遠くなってしまってから、彼は四五人のダンス仲間と一緒に入った「サロン春」で、偶然彼女に出遭《であ》ったものだったが、二三年のあいだに彼女はすっかり好い女給になっていた。
「葉子君んとこへ行かなかった?」
「梢《こずえ》さん? いいえ。お宅にいらっしゃるんじゃないんですか?」
何か知っているのではないかと思ったが、そのままに別れた。
この辺は晩方妻とよく散歩して、庸三のパンや子供のお弁当のお菜や、または下駄《げた》とか足袋《たび》とか、食器類などの買い物をしつけたところで、愛相《あいそ》のよかった彼女にお辞儀する店も少なくなかったが、葉子をつれて歩くようになってから、下駄屋や豆屋も好い顔をしなくなった。庸三もその辺では買いものもしにくかった。葉子と散歩に出れば、きっと交叉点から左へ曲がって、本屋を軒並み覗《のぞ》いたり、またはずっと下までおりて、デパアトへ入るとか、広小路で景気の好い食料品店へ入ったりした。気が向くとたまには寄席《よせ》へも入ってみた。活動の好きな彼女はシネマ・パレスへは大抵欠かさず行くので、彼も電車で一緒に行って見るのであったが、喫煙室へ入ると、いつもじろじろ青年たちに顔を見られ、時とすると彼女の名をささやく声も耳にしたりするので、彼は口も利かないようにしていた。「闇《やみ》の光」、「復活」などもそこで彼女と一緒に見た無声映画であった。それに翻訳物も彼女はかなり読んでいて、話上手な薄い唇《くちびる》から、彼女なりに色づけられたそれらの作品の梗概《こうがい》を聴《き》くことも、読むのを億劫《おっくう》にしがちな庸三には、興味ある日常であった。
庸三は三丁目から電車に乗って、広小路のデパアトへ行ってみた。咲子に何か買ってやろうと思ったのだが、ひょっとしたら子供の手を引いて、葉子がそこに人形でも買っていはしないかという、莫迦《ばか》げた望みももっていたのだった。彼は狐《きつね》に憑《つ》かれた男のように、葉子の幻に取り憑かれていた。そして無論いるはずもないことに気がつくと、今度は一旦|彷徨《さまよ》い出した心に拍車がかかって、急いでそこを出ると、今度は上野駅へ行ってみるのであったが、ちょうど東北本線の急行の発車が、夜の七時何十分かのほかにないことが解《わか》ると、自分のしていることがにわかに腹立たしくなって、急いでそこを出てしまっ
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