一緒に歩廊に立っていた。
 何といっても葉子にとって、彼の大きい子供は鬼門であったが、若い同志の文学論や音楽、映画の話では、二人は好い仲間であった。彼は父には渋面を向けても、手触りの滑《なめ》らかな葉子には諧謔《かいぎゃく》まじりに好意ある言葉を投げかけないわけに行かなかった。
 ある時庸三は彼女と一緒に、本郷座の菊五郎の芝居を見に行ったことがあった。
「君芝居|嫌《きら》い?」
「大好き。連れてって。」
 入ってみると、出しものは忠臣蔵で、刃傷《にんじょう》の場が開いていたが、目の多いなかで二人きりでいるのが、庸三には眩《まぶ》しかった。それに彼は第三者のいることが、いつでも望ましいのであった。二人きりの差向いは、一人でいるよりも寂しかった。第三者が他人の青年か何かである場合が一番|気易《きやす》い感じであった。賑《にぎ》やかに喋《しゃべ》っている二人――葉子をみているのが、とりわけよかった。相手が子供の場合には、仄《ほの》かな不安が伴うのだったが、子供が近よらないよりも安心だった。
「子供をつれて来ればよかった。」
 庸三が言うと、
「呼んで来ましょうか。」
 と言って、葉子は立って行ったが、芝居がだんだん進展して行くのに、どうしたことか葉子は容易に帰ってこなかった。彼は苛《いら》ついて来た。理由がわからなかった。彼は少し中っ腹で入口へ出てみた。そして廊下をぶらついているうちに、入って来る葉子の姿が目に入った。芝居よりかお茶でも呑《の》もうというので、喫茶店へ入っていたのだことを、葉子はそっと告げた。
 ある時も、彼女はパリへ立つ友人を見送る子供と三四人の同窓と、外国航路の船を見いかたがた横浜へ行こうとして、庸三の許しを乞《こ》うた。
「行ってもいい?」
 庸三は危ぶんだ。
「さあね、君が行きたいなら。」
「だからお訊《き》きしたいのよ。先生がいけないというなら断わるわ。」
「僕は何ともいうわけにいかない。」
「じゃ断わるわ。」
「断わる必要はない。君が行きたいんだったら。」
 その日が来たところで、結局葉子は子供たちと同行した。ちょうど庸三は用達《ようた》しに外出していたが、夜帰ってみると、彼女は教養ある青年たちのナイトぶりに感激したような口吻《こうふん》を洩《も》らしていた。そのころ彼らもだろうが、彼の子供はボオドレイルの悪魔主義や、コクトオ一派の超現実主義を尊崇していた。そこから出て来る耳新しい文学論は、葉子にも刺戟《しげき》があった。

「いる、いる!」
 窓から顔を出している瑠美子が目の前へ来た時、子供は頬笑《ほほえ》ましげに叫んだのだったが、庸三は何か冒険に狩り立てられるような不安を抱《いだ》いた。心は鎖《とざ》されていたが、しかしそれで葉子の落着きも出来そうに思えた。
 父が上海《シャンハイ》に遯《のが》れてから、瑠美子と幼い妹と弟とは、継母とその子供と一緒に、小樽の家を畳んで、葉子の町からはちょっと距離のある、継母の実家のある町に移って来た。その動静が葉子の母親たちの耳へも伝わって、惨《みじ》めに暮らしていることが解《わか》ったところで、奪取が企てられた。金を葉子に贈るために、四月に松川が東京に立ち寄った時、葉子は初めて瑠美子だけでも還《かえ》してくれるように哀願したのだったが、拒まれた――そう言って葉子は庸三に泣いていたものだったが、今その子供と一緒に庸三の家に落ち着いた彼女はたちまちにしてそこに別の庸三を見出《みいだ》した。
 母親がわりの葉子の愛を見失うまいとして取り着いて来る、庸三の末の娘の咲子と、幾年ぶりかで産みの母の手に帰って来た瑠美子と、そのいずれもの幼い心を傷つけまいとして、葉子は万遍なく愛撫《あいぶ》の心と手を働かした。外へ出る時、大抵彼女は咲子の手を引いていたが、咲子はまた瑠美子と手を繋《つな》いで歩いた。夜寝るときも葉子は二人を両脇《りょうわき》にかかえるか、眠るまで咲子だけを抱くようにして、童謡を謳《うた》ったり、童話を聞かせたりした。――と、そういうふうに庸三の目にも見え、心にも感じられたが、微妙な子供たちの神経を扱いわけるのは、彼女にも重すぎる仕事であった。
 ある日も咲子は、学校から退《ひ》けて来ると、彼女の帰るのを待っていた瑠美子と、縁側で翫具《おもちゃ》を並べて遊んでいた。細かい人形、お茶道具、お釜《かま》に鍋《なべ》やバケツに洗濯板《せんたくいた》、それに色紙や南京玉《ナンキンだま》、赤や黄や緑の麦稈《むぎわら》のようなものが、こてこて取り出された。
「瑠美子にも分けてあげなさいね。」
 傍《そば》に見ていた庸三が言うと、
「なに? これ?」
 咲子は色紙と麦稈とを、いくらか分けて与えたが、瑠美子は寂しそうで、色紙も麦稈もじき庭へ棄《す》ててしまった。葉子は傍ではらはらす
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