もも》にひたひた舐《な》めつく浪《なみ》のなかへだんだん入って行って、十間ばかり出たところで、泳いでみたが、さすがに鳥肌が立ったので、やがて温かい砂へあがって、日に当たった。新鮮な日光が、潮の珠《たま》の滑る白い肌に吸い込まれるようであった。
 葉子は素直に伸びた白い脛を、浪に嬲《なぶ》らせては逃げ逃げしていた。

 葉子が思いがけなく継母の手から取り戻した、長女の瑠美子《るみこ》をつれに、再び海岸の家へ帰って行ったのも、それから間もないことであった。彼女は十六時間もかかる古里と東京を、銀座へ出るのと異《かわ》らぬ気軽さで往《い》ったり来たりするのであった。この前東京へ帰ろうとする時彼女はいざ切符売場へ差しかかると、少しこじれ気味になって、瞬間ちょっと庸三をてこずらせたものだった。二人は売場を離れて、仕方なしに線路ぞいの柵《さく》について泥溝《どぶ》くさい裏町をしばらく歩いた。ポプラの若葉が風に戦《おのの》いて、雨雲が空に懸《か》かっていた。庸三が結婚形式を否定したので、母や親類の手前、ついて帰れないというようなことも多少彼女の心を阻《はば》んだのであろうが、いつものびのびした処《ところ》に意の趣くままに暮らして来た彼女なので、手狭な庸三の家庭に低迷している険しい空気に堪えられるはずもなかった。けれど庸三は無思慮にもすっかり正面を切ってしまった。もともと世間からとやかく言われてややもするとフラッパの標本のようにゴシップ化されている彼女ではあったが、ふらつきがちな魂の憩《いこ》い場所を求めて、あっちこっち戸惑いしているような最近数年の動きには、田舎《いなか》から飛び出して来た文学少女としては、少し手の込んだ夢や熱があって、長年家庭に閉じこもって、人生もすでに黄昏《たそがれ》に近づいたかと思う庸三の感情が、一気に揺り動かされてしまった。何よりも彼女の若さ美しさが、充《み》たされないままに硬化しかけていた彼の魂を浮き揚がらせてしまった。涙を流して喰ってかかる子供の顔が醜く見えたり、飛びこんで来て面詰する、親しい青年の切迫した言葉が呪《のろ》わしいものに思われたりした。耳元にとどいて来る遠巻きのすべての非難の声が、かえって庸三に反撥心《はんぱつしん》を煽《あお》った。彼は恋愛のテクニックには全く無教育であった。若い時分にすらなかった心の撓《たわ》みにも事かいていた。臆病《おくびょう》な彼の心は、次第に恥知らずになって、どうかすると卑小な見えのようなものも混ざって、引込みのつかないところまで釣りあげられてしまった。
 引込みのつかなかったのは、庸三ばかりではなかった。すっかり自分のものになしきってしまった庸三からの逃げ道を見失って、今は彼女も当惑しているのであった。
「僕を独りで帰そうというんだね。」
 庸三はすれすれに歩いている葉子を詰《なじ》った。一抹《いちまつ》の陰翳《いんえい》をたたえて、彼女の顔は一層美しく見えた。
「そうじゃないけど、少し話も残して来たし、私後から行っちゃいけない?」
「そうね。」
「先生はいいのよ。だけどお子さんたちがね。」
 葉子は別居を望んでいたが、子供たちから離れうる彼ではないことも解《わか》っていた。そして庸三の悩みもそこにあった。彼は「今までの先生の家庭の仕来《しきた》り通りに……」と誓った葉子のかつての言葉を、とっこに取るにはあまりに年齢の違いすぎることも知っていたが、彼女に殉じて子供たちから離れるのはなおさら辛《つら》かった。独りもののいつもぶつかるデレムマだが、同時にそれは当面の経済問題でもあった。何よりも彼は、葉子の苦しい立場に対する客観を欠いていた。
 とにかく次ぎのA――市行きを待って、葉子も朗らかに乗りこんだ。そして東京行きの夜行を待つあいだ、タキシイでざっと町を見てまわった。風貌《ふうぼう》の秀《ひい》でた藩公の銅像の立っている公園をも散歩した。
 汽車に乗ってからも、庸三は滞在中の周囲の空気――自身の態度、何か気残りでもあるらしい葉子の素振りなどが気にかかった。町の写真師の撮影所で、記念写真を撮《と》られたことも何か気持にしっくり来なかった。撮影所は美しい※[#「※」は「木+要」、第4水準2−15−13、166−下−21]垣《かなめがき》の多い静かな屋敷町にあったが、葉子はかつての結婚式に着たことのある、長い振袖《ふりそで》に、金糸銀糸で鶴《つる》や松を縫い取った帯を締め、近いうち台湾にいる理学士のところへ嫁《とつ》ぐことになっている妹も、同じような式服で、写場へ乗りこんだものだった。姉妹の左右に母と嫂《あによめ》とが並んで腰かけ、背の高い兄と低い庸三が後ろに立った。――庸三は二度とここへ来ることもないような気がした。
 瑠美子をつれて葉子の乗っている汽車が着いた時、庸三は長男と
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