否定した。
「あの人もう私をすっかり他人行儀の敬語を使ってるくらいよ。――私に千円くれたの。私|貰《もら》って来たわ。秘密にしてね。」
「銀行へ預けときたまえ。」
「そうするわ。」
そうしたのか、しないのか、庸三は金のことに触れようとしないのであったが、大分たってから思い出して聞いてみると、もう一銭も残っていなかった。もちろん貰って来た翌日、少し買いものをしたので、さっそく手のついたことだけは解っていたが。
松川を東京駅へ送って行ったのは、その翌日の朝であったが、庸三にも、ちょっと見送ってくれないかと言うので、一緒に行きは行ったのだったが、彼は何か照れくさくもあったし、葉子も少し気持がかわって一人でプラットホームへ上がって行った。
「子供をせめて一人だけ私にくれてくれられないかと私言ったのよ。けど駄目らしいの。やっぱり上海へ引き取るらしいわ。それがあの人たちの運命なら仕方がないと思うわ。」
丸ビルの千疋屋《せんびきや》で苺《いちご》クレイムを食べながら、葉子は涙ぐんでいた。
しかし一日二日たつと、そんな感傷もいつか消し飛んでしまって、葉子はその金でせめて箪笥《たんす》でも買いに行こうと庸三を促した。
「ねえ先生、私なんにもなくて不自由で仕様がないでしょう。お宅にいてもお茶もらいのように思われるのいやなの。松川さんのお金で箪笥と鏡だけ買いたいと思いますから、一緒に来て見てくれられない?」
二人はこのごろよく一緒に歩く通りから、切通しの方へおりて行った。そして仲通りで彼の金持の友人の買いつけの店へ誘って見た。手炙《てあぶ》り、卓、茶棚《ちゃだな》など桑《くわ》や桐《きり》で指《さ》された凝った好みの道具がそこにぎっしり詰まっていた。葉子は桑と塗物の二つか三つある中から、かなり上等な桑の鏡台を買ったが、そこの紹介で大通りの店で箪笥も一棹《ひとさお》買った。二百円余り手がついたわけだったが、今の葉子には少しはずみすぎる感じでもあった。まだどこかに薄い陰のある四月の日を浴びながら、二人は池の畔《はた》をまわって、東照宮の段々を上って行った。葉子は絶えず何か話していたが、人気の少ない場所へ来ると、どうかした拍子に加世子の噂《うわさ》が出て、それから彼女は押しくら饅頭《まんじゅう》をしながら、庸三を冷やかしづめだったが、その言葉のなかには、今まで家庭に埋《うず》もれていた彼には、ぴんと来るような若い時代らしい感覚も閃《ひら》めいていた。
「御免なさいね、奥さんのこと批判したりなんかして。でも、御近所で奥さん評判いいのよ。美容院のマダム讃《ほ》めていたわ。」
庸三は狐《きつね》に摘《つま》まれているような感じだったが、ちょうどそのころ、庸三は目に異状が現われて来て、道が凸凹《でこぼこ》してみえたり、光のなかにもやもやした波紋が浮いたりした。彼は年齢と肉体の隔りの多いこの恋愛に、初めから悲痛な恐怖を感じていたのだったが、ずっとうっちゃっておいた持病の糖尿病が今にわかに気にかかり出した。
「目が変だ。」
彼は昨日東京駅へ行く時、ふとそれを感じたのだった。
「じゃすぐ診《み》てもらわなきゃ。これから帰りに行きましょう。」
しかし馴《な》れて来ると、それはそう大して不自由を感ずるほどでもなかったが、今ふと池の畔を歩いていると、それがちょうどO――眼科医院の裏手になっているのに気がついた。診察時は過ぎようとしていたが、院長が気安く診てくれた。そして暗室へ入ったり、血液の試験をしたり、結核の有無を調べたりして、一時間以上もかかって厳密な試験をした結果、やはりそれが糖尿病に原因していることが明らかになった。
「当分つづけてカルシウムの注射をやってごらんなさい。」
院長は言うのだった。
庸三は帰りにニイランデル氏液を買って来て、埃《ほこり》だらけになっているアルコオル・ラムプと試験管とを取り出して、縁先きで検尿をやってみた。彼は病気発見当時、毎日病院へ通うと同時に、食料を一々|秤《はかり》にかけていたものだが、その当時は日に幾度となく自身で検尿もやった。それがずっと打ち絶えていたのであったが、今|蒼《あお》い炎の熱に沸騰した試験管の液体が、みるみる茶褐色《ちゃかっしょく》に変わり、煤《すす》のように真黒になって行くのを見ると、ちょっと気落ちがした。
「ほらほら真黒だ。」
彼は笑った。
「その皮肉そうな目。」
葉子も笑っていた。
庸三が葉子の勧めで、北の海岸にある彼女の故郷の家を見舞ったころには、沿道の遠近《おちこち》に桐の花が匂っていた。葉子はハンドバックに日傘《ひがさ》という気軽さで、淡い褐色がかった飛絣《とびがすり》のお召を着ていたが、それがこのごろ小肥《こぶと》りのして来た肉体を一層|豊艶《ほうえん》に見せていた。葉子はその
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