私を見棄《みす》てないでね。」
四月の風の荒いある日、玄関に人があって、出て行った葉子はやがてのこと、ちょっとした結び文《ぶみ》を手にして引き返して来た。彼女はそれを読むと、たちまち驚きの色を浮かべた。
「どうしたというんでしょう、あの男が来たのよ。」
それが北海道で破産したという松川であった。
「湯島の宿にいるのよ。すぐ立つんだから、ちょっとでいいから逢ってくれないかと言うんですけれど……。行かないわ、私。」
庸三は頭が重苦しくなって来た。どうにもならなくなって、田端へ来て身を潜めていた彼が、三人の子供と一緒に再び北海道へ帰って行ってから、もう二年近くになった。その間にいろいろの変化が葉子の身のうえにあった。葉子が田端の家ですっかり行き窮《づま》ってしまった結婚生活を清算して子供にも別れたのは、その年の大晦日《おおみそか》の除夜の鐘の鳴り出した時であった。彼女は子供たちを風呂《ふろ》へ入れてから旅の支度《したく》をさせた。しばしば葉子は忘れがたいその一夜のことを話しては泣くのだった。
「でも私からは遠い子供たちですのよ、あの人たちはあの人たちでどうにかなって行くでしょうよ。思ったってどうにもならないことは思わないに限るのね。」
土地では運命を滅茶々々《めちゃめちゃ》にされた男の方に同情が多いものらしかったが、葉子に言わせると男の性格にも欠陥があった。美貌《びぼう》のこの一対が土地の社交界の羨望《せんぼう》の的であっただけに、葉子のような妻を満足させようとすれば、派手な彼としては勢い危険な仕事に手を染めなければならなかったし、どんな生活の破綻《はたん》が目の前に押し迫っている場合でも、彼女の夢を揺するようなことはできないのであった。若い技師の道楽半分に建ててくれた文化住宅の日本風の座敷に、何を感違いしたのか、床柱が一方にしかないのが不思議だと言って、怒り出した妻を、言葉優しく言い宥《なだ》めるくらいの寛容と愛情に事かかない彼だったが、田端時代になって愛の破局が本当にやって来た。それは、葉子がちょうどスタジオ入りの許しを得ようとした時であった。
「お前の容色《きりょう》なら一躍スタアになれるに違いないが、その代り貞操を賭《か》けなきゃならないんじゃないかね。」
葉子はそれを否定する代りに、にやりと頬笑《ほほえ》んだ。
今、葉子は思いがけなく上京した松川の手紙を見ると、一時に心が騒ぎ立った。いくらかの恐怖はあったにしても、どんな場合にも彼女は相手の愛を信じて疑わなかった。
「何だか気味が悪いから電話してみますわ。」
葉子はそう言って、不断電話を借りつけの裏の下宿屋へ行った。
相手が出て来たところで、彼女は気軽に話しかけた。
「もしもし私よ、解《わか》って?」
「うむ、僕だよ。都合上ちょっと遠いところへ行く途中、ごく秘密に逢《あ》いたいと思って寄ったんだが、久しぶりでいろいろ話もあるし、貴女《あなた》のことも心配しているんだ。それでぜひ逢って渡したいものがあるから、ちょっとここまで来てもらいたいんだ。」
「そう、じゃすぐ行くわ。」
葉子は庸三の傍《そば》へ返ってその通りを告げた。
「ひょっとしたら少し手間取るかも知れないのよ。だけど私を信じていてね。」
葉子は湯島に宿を取っている松川を見ると、いきなり飛びついて来る彼に唇《くちびる》を出した。松川は洋服も脱がずにいたが、田端で別れたころから見ると、身綺麗《みぎれい》にしていた。彼は今顧問弁護士をしていた会社の金を三万円|拐帯《かいたい》して、留守中の家族と乾分《こぶん》の手当や、のっぴきならない負債の始末をして、一旗揚げるつもりで上海《シャンハイ》へ走るところであった。当分|潜《もぐ》っていて、足場が出来次第後妻や子供たちを呼び寄せることになっていた。葉子は涙ぐんだ。
「これは絶対秘密だよ。不自由してるだろうから、貴女にあげようと思って……これだけあれば当分勉強ができるだろう。」
松川はそう言って、ポケットの札束から大札十枚だけを数えて渡した。送らせて来た書生が席を外していたので、二人はいつも媾曳《あいびき》している恋人同志のように話し合った。
「あの先生も君を好きだろう。始終傍にいるのかい。」
「ううん……それに先生はお年召していらっしゃるから。」
日の暮れ方になって、葉子は別れて来たが、外へ出てからも涙がちょっとは乾かなかった。
庸三は騒がしい風の音を聴《き》きながら、葉子の帰るのを待ち侘《わ》びていた。憂鬱《ゆううつ》な頭脳《あたま》の底がじゃりじゃりするようで、口も乾ききっていた。彼は肉体的にも参っていた。
帰って来た葉子の目が潤《うる》んでいた。
「そのくらいのことは赦《ゆる》してもいい。」
庸三は仕方なしそういう気持にもなれたが、しかし葉子は
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