かというと姉を頼りにするようなものばかりであった。それに子供の面倒を見てくれているのが、お人好しの加世子の母だったので、庸三はどうかすると養子にでも来ているような感じがした。そうした因縁を断ち切るのは、相当困難であった。子供が殖《ふ》えるにつれて、彼女も次第に先きを考えるようになり、末の弟を頼みにしていたのだったが、葉子が入って来てからそれらの人らは一時に姿を消してしまった。庸三は長いあいだの荷物を卸して、それだけでもせいせいした気持だったが、当惑したのは子供のために頑張《がんば》ろうとした姉と葉子との対峙《たいじ》であった。もちろん一家の主婦が亡くなったあとへ来て、茶の室《ま》に居坐るほどのものが、好意だけでそうするものとはきまっていなかった。放心《うっかり》していると、ふわりと掩《お》っ冠《かぶ》さって来るようなこともしかねないのであった。
「君いい家庭婦人になれると言うなら、食べもの拵《ごしら》えもしてみるといいよ。」
 秋田育ちの葉子は食べ物拵えにも相当趣味をもっている方であったが、その時台所へ出て拵えたものは、北海道料理の三平汁《さんぺいじる》というのであった。葉子は庸三に訊《き》きに来られると、顔を赤くして、
「いやよ、見に来ちゃあ。」
 お国風の懐石料理をいくらか心得ていた姉は、大鍋《おおなべ》にうんと拵えた三平汁を見ると、持前の鋭い目をぎろつかせたものだったが、そうした場合に限らず、長火鉢《ながひばち》の傍に頑張っている姉の目の先きで、子供たちと一緒に食卓に坐るのは、葉子には堪えられないことだった。三度々々の食事の気分というものが、人間の生活にとってどんな影響を与えるかということは、普通世間の嫁|姑《しゅうとめ》継母《ままはは》継子のあいだにしばしば経験されることだった。もし葉子がいなかったとしても、後で庸三は姉に世帯《しょたい》を委《まか》したことをきっと後悔したに違いなかった。彼はその時裏の家で、いつの間にかかなり大きい荷物の用意されてあることを見てから、一層不愉快になった。
 しかし葉子は、子供の相手になって童謡を謳《うた》ったり、咲子にお化粧をしてやったり、器用に編棒を使ったり、気が向くと時には手軽な西洋料理を作るとか、または恋愛小説に読み耽《ふけ》り、長男と新らしい文学や音楽映画の話をするのが、毎日の日課で、勝手元を働くのは、年の割りに体のかっ詰まったお鈴という女中だけであった。後に女中の手が殖《ふ》えて来たけれど、お鈴は加世子の生きている時からの仕来《しきた》りを、曲りなりにも心得ていて、どこに何が仕舞ってあるのかもよく知っていた。しかし加世子も気づいていた持前の偸《ぬす》み癖がだんだん無遠慮になって来たところで、それもいつか遠ざけてしまった。
 ある小雨《こさめ》のふる日、葉子は顔を作って、地紋の黒い錦紗《きんしゃ》の紋附などを着て珍らしく一人で外出した。
「私写真|撮《と》りに行ってもいい?」
 彼女は庸三の机の側へ来て言った。
「いいとも。どこで……。」
「銀座の曽根《そね》といって、素晴らしい芸術的な写真撮るところよ。すぐ帰って来るわ。先生|家《うち》にじっとしていなきゃいや。きっとよ。じゃあ、げんまん!」
 そういう場合、大抵|接吻《せっぷん》と指切りを抵《かた》において行くのが、思いやりのある彼女の手であった。庸三は昔、下宿時代に遊びに行って、女が他の部屋へまわる時、縞《しま》お召の羽織をそこへ置いて行かれると、それが何かの気安めになったことを思い出したが、しかしその時は、どうかすると胡散《うさん》くさい彼女が離れて行きそうな仄《ほの》かな不安を感じながらも、言われるままにじっと待っているのだった。後になって考えると、間もなく気取ったポオズの写真が届いたところを見ると、それが全部|嘘《うそ》でないにしても、真実ではなかった。多分一色を訪ねたか、秋本がその時まだ東京にいたものとすると、彼の旅宿へ立ち寄ったものだと思われた。庸三がしとしと雨の降り募って来たアスファルトの上を、彼女が軽い塗下駄の足を運んでいる銀座の街《まち》を目に浮かべている間に、彼女の※[#「※」は「にんべん+就」、第3水準1−14−40、158−下−20]《やと》ったタキシイがどこをどう辷《すべ》っていたかも知れないのであった。女と逢《あ》っているよりも、女を待っている時の方が、ずっと幸福なものだということは、もとより知る由もなかった。庸三は銀座の到《いた》る処《ところ》に和髪とも洋髪ともつかない葉子独特の髪で、紺の雨傘《あまがさ》をさして、春雨のなかを歩いている彼女の幻を追っていた。が、するうち胸が圧《お》されるようになって来た。庸三はしかしそう長く悩んでいなかった。やがて帰って来た葉子は彼の膝《ひざ》へ来て甘えた。

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