葉子にもすっかり文壇との交遊を絶ってもらいたいというのが、かねての彼の申出《もうしい》でらしかったが、葉子は文壇に乗り出す手段としてこそ、そうしたペトロンも必要だったが、そこまで附いて行けるかどうかは彼女自身にも解っていなかった。
間もなく葉子が帰って来た。
「綺麗《きれい》な男じゃないか。」
「そう思う?」
葉子は微笑した。
その時分彼女はまだすっかり宿を引き払っていなかったので、秋本に逢《あ》ったのは、今日が初めかどうかは解《わか》らなかったし、玄関口で二人で何か話していたことも知っていたが、晴々しい顔をして傍《そば》へ返って来た葉子を見ると、多少の陰影があるにしても、それは単に歌のことで指導を受けている間柄のようにしか見えなかった。
その時分庸三の周囲が少しざわついていた。新聞にも二人の噂《うわさ》が出ていて、時とすると匿名《とくめい》の葉書が飛びこんだり、署名して抗議を申しこんで来たものもあって、そのたびに庸三は気持を暗くしたり、神経質になったりするのだが、葉子はそろそろ耳や目に入って来るそれらの非難を遮《さえ》ぎるように、いつも彼を宥《なだ》め宥めした。家庭の雰囲気《ふんいき》が嶮《けわ》しくなって来ると、すごすご宿へ引き揚げて行くこともあったし、彼女自身が嶮悪になって、ふいと飛び出して行くこともあった。庸三は何かはらはらするような気持になることもあったが、葉子はその後で手紙を少女にもたせて、彼を宿に呼び寄せたり、興味的に追いかけて行く子供と一緒に、夜更《よふ》けの町をいつまでも歩いていることもあった。
ある日彼女はどこからか金が入ったとみえて――彼女は母からの月々の仕送りのように言っていた――何かこてこて買いものをしたついでに、美事なグラジオラスの一|鉢《はち》を、通りの花屋から買って来て、庸三を顰蹙《ひんしゅく》せしめたものだが、お節句にはデパアトから幾箇《いくつ》かの人形を買って来て、子供の雛壇《ひなだん》を賑《にぎ》わせたり、時とすると映画を見せに子供を四人も引っ張り出して、帰りに何か食べて来たりするので、庸三はある日彼女の部屋を訪れて、彼女にお小遣《こづかい》を贈ろうとした。
「先生のお金――芸術家のお金なんて私とても戴《いただ》けませんわ。私そんなつもりで、先生んとこへ伺っているんじゃないのよ。どうぞそんな御心配なさらないで。」
彼女は再三押し返すのだったが、庸三の引込みのつかないことに気がつくと、
「それじゃ戴いときますわ。――思いがけないお金ですから、このお金で私質へ入っているものを請け出したいと思うんですけれど。」
「いいとも。君もそういうことを知っているのか。」
「そうですとも。松川と田端《たばた》に世帯《しょたい》をもっている時分は、それはひどい困り方だったのよ、松川は職を捜して、毎日出歩いてばかりいるし、私は私で原稿は物にならないし、映画女優にでもなろうかと思って、せっかく話をきめたには決めたけれど、いろいろ話をきいてみると、厭気《いやき》が差して……第一松川がいやな顔をするもんで……。」
葉子は出て行ったが、間もなくタキシイにでも載せて来たものらしく、息をはずませながら一包みの衣裳《いしょう》を小女と二人で運びこんで来た。派手な晴着や帯や長襦袢《ながじゅばん》がそこへ拡《ひろ》げられた。
「私これ一枚、大変失礼ですけれど、もしお気持わるくなかったら、お嬢さんに着ていただきたいと思うんですけれど。」
「そうね。学生で、まだ何もないから、いいだろう。」
二人は間もなく宿を出て、葉子自身は花模様の小浜の小袖《こそで》を一枚、風呂敷《ふろしき》に包んで抱えて庸三の家へ帰って来た。彼女はなるべく金の問題から遠ざかっていたかった。庸三との附き合いを、生活問題にまで引き入れることは、何かにつけて体を縛られることにもなるし、庸三の気持を深入りさせることにもなるので、それは避けたいと思っていたのであったが、彼の気持はすっかり彼女の言葉どおりに、葉子に掩《おお》いかぶさっていた。
五
葉子はそのころ庸三の娘たちをつれて、三丁目先きの名代の糸屋で、好みの毛糸を買って来て、栄子のためにスウェタアを編みはじめていたが、そんな時の彼女は子供たちのためにまことに好い友達であったが、彼女が庸三の傍《そば》へ来ていたり、一緒に外出したりすると、子供たちは寂しがった。そのころ加世子の死んだあと、独り残って勝手元を見てくれていた庸三の姉は、すでに田舎《いなか》へ帰っていたし、葬式の前後働いていてくれた加世子の弟娵《おとうとよめ》も、いつとなし遠ざかることになっていた。加世子にはやくざな弟が二人もあった。高等教育を受けて、年の若い割に由緒《ゆいしょ》のある大きな寺に納まっている末の弟を除くほか、何
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