前にも一度|田舎《いなか》へ帰ったが、その時は見送りに行った庸三の娘を二人とも、不意に浚《さら》って行ってしまった。その日は土曜日だった。葉子に懐《なつ》いている幼い子が先きへ乗ったところで、長女がそれに引かれた。
「おばちゃんの家《うち》そんなでもない!」
 自然の変化の著しい雪国に育っただけに、とかく詩情の多い葉子に自慢して聞かされていたほどではなかったので、子供は失望したのであった。
 海岸線へ乗り替えてからは、多分花柳気分の多いと聞いている酒田へでも行くものらしく、芸人の一団と乗り合わせたので、いくらか気が安まった。事実葉子は昨夜寝台に納まるまで、警戒の目を見張っていた。異《かわ》ったコムビなので、二人は行く先き先きで発見された。葉子で庸三がわかり、庸三で葉子が感づけるわけだった。非難と嘲弄《ちょうろう》のゴシップや私語《ささやき》が、絶えず二人の神経を脅かしていた。――ここまで来る気はなかった。庸三の周囲も騒がしかった。
 芸人たちは、その世界にはやる俗俳の廻し読みなどをして陽気に騒いでいた。汽車は鈍《のろ》かった。
 葉子は初め酒田あたりの風俗や、雪の里と称《よ》ばれる彼女の附近の廻船問屋《かいせんどんや》の盛っていたころの古いロオマンスなどを話して聞かせていたが、するうち飽きて来て、うとうと眠気が差して来た。――六年間肺病と闘《たたか》っていた父の生涯、初めて秋田の女学校へ入るために、町から乗って行った古風な馬車の喇叭《ラッパ》の音、同性愛で教育界に一騒動おこったそのころの学窓気分、美しい若い人たちのその後の運命、彼女の話にはいつも一抹《いちまつ》の感傷と余韻が伴っていた。
 駅へは葉子の母と妹、縁続きになっている土地の文学青年の小山、そんな顔も見えた。家は真実そんなでもなかったけれど、美事な糸柾《いとまさ》の杉《すぎ》の太い柱や、木目《もくめ》の好い天井や杉戸で、手堅い廻船問屋らしい構えに見受けられた。裏庭へ突きぬける長い土間を隔てて、子供の部屋や食堂や女中部屋や台所などがあった。挨拶《あいさつ》がすんでから、庸三は二階へ案内されたが、そこには広い縁側に古びた椅子《いす》もあった。そこの広間がかねがねきいている、二日二晩酒に浸っていた松川との結婚の夜の名残《なご》りらしかったが、彼女は多分草葉を連れて来た時もしたように、彼をその部屋に見るのが面羞《おもは》ゆそうに、そっと寄って唇《くち》づけをすると、ぱっと離れた。足音が段梯子《だんばしご》にした。
「母はちっとも可笑《おか》しくないと言ってますのよ。」
 高い窓をあけて、碧《あお》い海を見たりしてから下へおりた。葉子の着替えも入っている彼のスウトケイスが、井戸や風呂《ふろ》の傍《そば》を通って、土間から渡って行く奥の離れの次ぎの間にすでに持ち込まれてあった。
 葉子はそこへ庸三を案内した。
「本当にお粗末な部屋ですけれど、父がいつけたところですの。父は誰をも近づけませんでしたの。ここで本ばかり読んでいましたの。冬の夜なんか咳入《せきい》る声が私たちの方へも聞こえて、本当に可哀相《かわいそう》でしたわ。」
 棚《たな》に翻訳小説や詩集のようなものが詰まっていた。細々《こまこま》した骨董品《こっとうひん》も並べてあった。庸三は花園をひかえた六畳の縁先きへ出て、額なんか見ていた。
「裏へ行ってみましょう。」
 誘われるままに、庭下駄《にわげた》を突っかけて、裏へ出てみた。そこには果樹や野菜畑、花畑があった。ちょっとした木にも花にも、葉子は美しい懐かしさを感ずるらしく、梅の古木や柘榴《ざくろ》の幹の側に立って、幼い時の思い出を語るのであった。幾つもの段々をおりると、そこに草の生《お》い茂った堤らしいものがあって、かなりな幅の川浪《かわなみ》が漫々と湛《たた》えていた。その果てに夕陽に照り映える日本海が蒼々《あおあお》と拡《ひろ》がっていた。啼《な》き声を立てて、無数の海猫《うみねこ》が浪のうえに凝《かた》まっていた。
 その晩、庸三が風呂へ入って、食事をすましたところへ、もう二人の記者がやって来た。仕方なし通すことにした。
「福島の方から、ちょっとそんな通信が入ったものですから。」
 文学的な情熱に燃えているような一人は、そう言って寛《くつろ》いだ。そして葉子を顧みて、
「ここにこんな風流な部屋があるんですか。」
 そして葉子がビイルを注《つ》いだりしているうちに、だんだん気分が釈《ほぐ》れて、社会面記者らしい気分のないことも頷《うなず》けて来た。
「先生の今度お出《い》でになったのは、結婚式をお挙げになるためだという噂《うわさ》ですが、そうですか。」
 庸三は狼狽《ろうばい》した。もっとも庸三にもしその意志があるなら横山の叔父《おじ》が話しに来るはずだと、葉子は言う
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