》の母のもとへかえって行ってしまった。北山も江古田で一軒世帯を作って、画《え》に精進していたし、瑠美子は最近往来の道が開けて来た、郊外の従姉《いとこ》の家へ、ずっと預けっ放しになっていた。それというのも、あれほど瑠美子を手懐《てなず》けていた清川も、同棲《どうせい》生活が初まるとたちまち態度が豹変《ひょうへん》して来たからで、それも彼ら二人の恋愛生活に幻滅を促した一つの原因であった。
 葉子はデパアトから買って来た、コーヒ沸しのレトルトをもっていて、しきりにコーヒを沸かした。それは清川を監督している例の先輩が、独逸《ドイツ》から沢山買って来て、床下に投《ほう》っておいたというのは昔のことで、今はデパアトにも出ているのであった。葉子の本箱のなかには、別にハムやコオンビイフ、林檎《りんご》、オレンジなどの食料品があり、もうだんだん寒くなって来たので、朝おきると顔も洗わずに、瓦斯ストオブをたきながら、軽い食事を取るのだったが、創作に悩んで来ると、庸三が邪魔になることもあった。それにアパアトを管理している薬局の主人は、どうかすると部屋を見に来る人に、四階に葉子のいることを、宣伝の役に立てようとしたりするので、庸三も裏口から出入りするようにしていたが、こちこち硬《かた》い階段を上りおりするのも相当骨が折れ、やっと部屋まで辿《たど》り着いたと思うと、鍵《かぎ》がかかっていたりした。彼女の行くのは、大抵シネマ・パレスか南明座あたりで、筆が渋ると映画に救いを求めに行くのだったが、部屋をあけるのは、そのためばかりとも決められないようなものであった。
 庸三も、彼女が思っているほど葉子の文学にそう大して関心をもっているわけでもなかった。彼女の美貌《びぼう》ほどに彼女の文学に興味はもてなかったが、しかし風にも堪えない野の花のようなその情趣や感傷の純粋さは認めないわけに行かなかった。筋やテイマを話しながら、彼女は草稿を見せた。庸三はコーヒを呑《の》みながら、一枚々々読んで行った。どうかすると驚嘆するような老劇作家と師弟関係の若い愛人の女優との同棲《どうせい》生活の新鮮な描写があるかと思うと、うらぶれて放浪の旅から帰って来て、先輩であるその老劇作家のもとに身を寄せている青年と、昔、恋愛模様のあったその女優との熱烈奔放な恋愛場景があったりして、ちょうどそれが雨のふるかつての一夜の出来事を彷彿《ほうふつ》させるような面白い芝居に出来ていた。モデルがはっきり誰であるとも示すこともできないように、彼女一流の想念の花で粉飾《ふんしょく》されてあった。
「どう?」
 葉子は庸三の顔を覗《のぞ》きこむようにして訊《き》いた。
「そうだね。」
「駄目?」
「でもあるまい。」
 間もなく浄書がはじまり、一人の助手が部屋に現われた。助手は新進のブロレタリヤ作家の夫人で、その名は庸三も耳にしていたが、紹介されてみて、その純良な婦人であることが解《わか》り、そういう仕事もいくらかの生活の補いになるのだと聞いて、その心掛けに敬意を払わないわけに行かなかった。ある時は女二人が一つ蒲団《ふとん》のなかで、睦《むつ》まじそうに話しながら寝ている傍《そば》で、庸三は頭のつかえる押入のベッドのうえに横たわっていた。

 やがて応募作品が十篇二十篇と彼の書斎に持ちこまれて来た。
 初め葉子は彼女の計画を庸三には一切秘密にしておくつもりであった。それというのも、あいにく二人の選者のうちの一人が庸三自身であったからで――しかしまた庸三が取捨の一半の権利をもっており、事によれば庸三が採点の遣《や》り繰り一つで、彼女の作品の運命を決定することも不可能ではなかったので、あらかじめ彼の批判を得ておきたくもあった。
「選者として先生をお苦しめするのは、私も良心に咎《とが》めることですから、先生には秘密にしておきたかったのですの。でも先生は毎日のように来るでしょう。私全く困っちゃったの。もちろん栗原《くりはら》さんも大変いいものだから、きっと当選するだろうと言って下さるし、私も脂《あぶら》が乗ったものなの。つい秘密が保てなくなってしまったんですけれど、匿名なら先生の立場だって、別に悪くはないわけじゃない? それも先生に贔屓分《ひいきぶん》に点をいただこうとは思わないの。選者として公平な態度をお失いにならない限度で、もしかして二つ同点の作品があったというような場合に、私のをお採りになっていただけないこともないじゃないかと、そう思ったの。いけない。」
 もちろん庸三も客観的な立場を守りたいに違いなかったが、作品が取れば取れるものであることも解《わか》っていた。
 庸三は応募作品を一つ一つ熱心に読みはじめたが、題材と舞台に関する限り、今までの文壇人には手のとどかないものもあったりして、彼も興味を唆《そそ》られた
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