。惨《みじ》めな礦夫《こうふ》の生活をかいたもの、北海道の終身刑囚の脱獄、金龍館《きんりゅうかん》で、一時あれほど盛《さか》っていた歌劇団の没落と俳優たちや周囲の不良群の運命、等々――そのなかでも、離散した歌劇団の歌手たちに絡《から》んだ、頽廃的《たいはいてき》な浅草の雰囲気《ふんいき》を濃い絵具で塗り立てた作品の、呼吸の荒々しさと脈搏《みゃくはく》の強さには、庸三もすっかり参ってしまった。
「なかなかいいのがある。」
 庸三は二三の作品を懐《ふとこ》ろにして、葉子の部屋に現われた。
「そう――どれ私にも読ませて。」
 葉子はそう言って、乱暴に書きなぐったその作品を読みはじめた。
「作品はいいんだが、新聞の読みものとしては、柄が少し悪いし、楽屋落ちも多いから、一般の読者には不向きかも知れない。それに後半がだれてる。」
「そう――。」
 しかし庸三が採点に苦心した結果、依怙贔屓《えこひいき》でない程度で、「地上の虹《にじ》」と題した彼女の作品が、どうにか二等くらいに当選すべき運命にまで漕《こ》ぎつけた時になって、栗原夫人の名をつかったことが暴露した結果、それも到頭|闇《やみ》へ葬られてしまった。
 ある時も、庸三はアパアトを訪ねてみた。町はもうすっかり真冬の気分で、街路樹の銀杏《いちょう》に黄金色《こがねいろ》の葉の影もなかった。葉子の計画も惨敗におわり、立て直そうとした小説道への精進も挫《くじ》けたとなると、彼女の運命も庸三の手には支えきれなかった。
「もういませんか。」
 薬局に就《つ》いてきいてみると、その日も葉子は不在であった。部屋の空気が険悪になって、互いに苛々《いらいら》しい気持に駆り立てられ、激しい言葉を投げ合って別れてから、一週間になっていた。庸三は最近時々一緒に飯を食べたり、お茶を呑《の》んだりしていた、藤子《ふじこ》をその時もつれていた。
「もう居ませんよ。」
 主人は答えたが、いつになくにこにこして、
「いや、どうも梢さんはいけませんよ。あの人は先生のような方がしっかり監督なさらないと、何をするか解りませんな。」
「何かやってますか。」
「それは解りませんけれど、どうもあの人は普通ではありませんね。」
「敷金は持って行きましたか。」
「いや、後で取りに来るとおっしゃって。」
「じゃあ、僕がもらっておきましょう。」
 大した金でもなかったが、この期《ご》になって彼はそれが惜しくなった。預り証もちょうど紙入れのなかにあった。敷金は二カ月分残っていた。
 藤子は軽い雨のなかを、黒蛇《くろじゃ》の目をさして、四角《よつかど》に待っていた。彼女は久しく庸三のところへ出入りしている美貌《びぼう》の未亡人で、いつも葉子に関する庸三の話のよき聴《き》き手の一人であった。
 やがて二人で小夜子の家《うち》で晩飯を食べるつもりで、自動車を一台呼びとめた。
 結局は清川との恋愛によって、彼の幻想も微塵《みじん》に砕かれたと言ってよかった。

 大分たってから、渋谷に書店を開き、その奥を若い人たちのサロンにして、どうにか生活の道に取りついた時、葉子もそれを庸三に見てもらいたく、北山をわざわざ使いに立てて会見を求めて来た。
 その時庸三は待ち合わせていた葉子につれられて、その店を見に行ったが、二三度訪ねるうちに、ちょうど店番や書籍の配達などに働いていた青年は、三丁目のおでんやの文学青年で、その男の口から、葉子の近頃の消息も時々庸三の耳に伝わり、彼女の憧憬《しょうけい》の的となっていたコレット女史を逆で行ったような巷《ちまた》の生活が発展しそうに見えた。
 そのころ庸三はふとした機会から、踊り場へ足踏みすることになり、そこで何かこだわりの多い羽織|袴《はかま》の気取りもかなぐり棄《す》てて、自由な背広姿になり、恋愛の疲れを癒《いや》すこともできた。そしてその時分から埃塗《ほこりまぶ》れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。



底本:「現代日本文学館8 徳田秋声」文藝春秋
   1969(昭和44)年7月1日第1刷
入力:久保あきら
校正:湯地光弘
2001年5月17日公開
2003年6月22日修正
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