いるはずであった。とかく彼は自身の生活圏内へ子供を引き入れすぎる形があった。葉子とのその時々の出来事についても、彼はあけすけに庸太郎に話しもし、見せもした。時とすると、見ていてスリルを感ずることもあったが、子供を信じようとした。小夜子の場合も、庸三自身その誘因を成しているとも言えるのであった。子供たちはみんな一様に母性愛に渇《かわ》いていた。庸太郎にとって小夜子はいつとはなし半母性の役割を演じていた。遊ぶとき三人一緒のことも、まれではなかった。小夜子とだけの場合にも、庸三は庸太郎のいないのがかえって物足りない思いであった。
「先生に少し御相談したいことがあって伺ったんですの。」
小夜子は切り出したが、それはほんの女同志の友情の一|些事《さじ》にすぎなかった。と言うのは、葉子のことからこのごろ庸三も親しくなった舞踊の師匠が、昨夜ふと一人の友達をつれて川沿いの家《うち》に現われ、師匠も小夜子も、時代は違っても、昔しは同じ新橋に左褄《ひだりづま》を取っていたこともあるので、話のピントが合い、楽しい半夜を附き合ったのであった。すると帰りがけに、小夜子の断わるのも聞かずに、無理に祝儀を置いて行ったのであった。
「ところが後で見るとそれが少し多すぎるんですよ。何もあんなに戴《いただ》く理由ないんですから、私何か品物でお返ししようと思うんですけれど、何がいいでしょうね。」
水商売の女としては、小夜子はいつも几帳面《きちょうめん》であった。
「ハンドバッグか化粧品のようなものでも。」
「そうね。だけど、あの人|支那服《シナふく》着ていましたね。」
小夜子と庸太郎と三人で、ある夜銀座を散歩していた時、支那服の師匠に逢《あ》ったのは、つい最近のことであった。庸三は、葉子の相手が清川とわかったあの時、すぐ近くの自動で、さっそくそれを師匠に報告したが、電話へ出た彼女の応答は思い做《な》しかひどく狼狽《ろうばい》気味のように受け取れた。それから三四日して行ってみると、案じたほどではなく、弟子を集めてお稽古《けいこ》をしていた。庸三の方がかえって照れたくらい、彼女は落ち着き払って踊りの地をひいているのだった。撥音《ばちおと》が寒い部屋に冴《さ》え返っていた。
次ぎの部屋で待っていると、師匠はやがて撥をおいてやって来たが、これも庸三の思い過ごしか表情が少し硬《かた》く、警戒されてでもいるようで、いくらか心外な感じがしなくもなかった。しかしそれも、後になって考えてみると、清川と師匠の関係は、切れたようで真実は切れきりではなかったのかも知れないのであった。切れるために、庸三の金がいくらか役に立ったのではなかったか。瑠美子の恩師へのせめてもの償いとしても、葉子と清川とがそれだけの物資を提供したであろうことも、庸三の感じに映ったあの時の事象の辻褄《つじつま》を合わせるのに、まるきり不必要な揣摩《しま》でもなかった。しかしそれも時たってから、庸三の興味的にでっちあげた筋書で、事件の直後にはなんの影も差さなかった。
「えらいんだな、もう稽古なんか初めて。」
庸三が言うと、彼女は嫣然《にっこり》して、
「え、今日から初めましたの。心持の整理もつきましたからね。それに負け惜しみじゃないけれど、真実《ほんとう》を言うと、この方がさっぱりしていいのよ。」
そして三十分ほど話して、庸三は師匠の家を出たのだったが、銀座で食料品の店頭に、ふと支那服の彼女を見つけた時には、少女のように朗らかであった。庸三は小夜子と庸太郎を紹介して、四人歩きながらしばらく話してから別れたのだったが、それが契機《きっかけ》となって川沿いの家の訪問となったものであった。
支那服は東洋風の麗人にふさわしいものだけに、師匠を若くもしていたし、魅力的にもしていた。そこで小夜子の案で靴を贈ることに決まったが、どうせ贈るなら好いものをあげたいから、遊びがてら浜まで行って一緒に見てくれまいかというのであった。
「それで、足の寸法もありますから、あの人にも行っていただきたいんですの。それとなくみんなで遊びに行くことにして。支那料理くらい奢《おご》りますわ。」
「よかろう。」
二十六
さっそく電話で打合せをして、師匠の雪枝と新橋で落ち合って、小夜子と庸三父子と都合四人で半日遊ぶつもりで横浜へドライブしたのは、それから一日おいての午後のことであった。伊勢佐木町《いせざきちょう》の手前でタキシイを乗り棄《す》て、繁華な通りをぶらついたが、幾歳《いくつ》になっても気持の若い雪枝は、子供のように悦《よろこ》んで支那服姿で身軽に飛び歩いていた。やがて目的の元町通りを逍遙《ぶらつ》いて西洋家具屋や帽子屋の飾り窓を見てまわり、靴屋も見たのだったが、当の本人がいるのではやはり工合《ぐあい》がわるかった。何
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