》しそうに笑っていた。
「母さんどうしたの。」
 庸三は傍《そば》へ寄って来る瑠美子にきいてみた。瑠美子は悪怯《わるび》れてもいなかった。
「あのね、ママは今日ね、私と一緒に銀ぶらに行ったの。だけどママはほかへまわることになったの。それで北山さんに電話をかけて私を連れに来てもらったの。」
 何のことだか解《わか》らなかった。北山や史朗にきいてみるのも無駄であった。庸三は煙草をふかしながら、しばらく横になって目を瞑《つぶ》っていたが、太々《ふてぶて》しくも思えて、やがてそこを出て来た。

 葉子によって庸三に紹介された年少詩人のこの場合の立場の不利であったのはもちろんだが、しかし去就に迷うほどのことでもなかった。彼はそのころ、庸三に接近しているある大新聞の学芸欄記者に拾われて、その下に働いたことがあり、ほんの二三カ月だったが、とにかくジャアナリストとしての一役を当てがわれて、すっかり朗らかになっていたこともあった。やっと少し喫茶代や煙草賃に有りついたと思うと、印刷職工から相手にされず、主任も手を焼いて止させてしまったが、その代り文壇の先輩にいくらか知られるようになり、有名な大森の詩人に近づくこともできた。しかし一度失業すると、小遣《こづかい》取りの口に有りつくのは容易でなかった。そのうち庸三の長女に仏蘭西語《フランスご》を教わり出したが、いつも寂しそうに見える庸三のために、葉子の近頃の消息を伝えたりもした。彼も久しく葉子を見ないと心が渇《かわ》くのであった。彼の話によると、葉子がまだ下宿している去年の冬時分、彼女は北山や瑠美子をつれて、時々番町にある清川の家《うち》を訪問していた。レコオドをかけたり、瑠美子を踊らせたり、いつも賑《にぎ》やかな談笑に花が咲いていた。そう聞くと、庸三も自分に対するひところの彼女の硬張《こわば》った気持もわかるのであった。
 ある日も史朗は葉子を見に行って来た。彼はたまには葉子に貰った小遣をポケットに入れているのだったが、庸三の想像では、清川の生活は相当豊富なもののように思えたし、今度の恋愛事件では、かなりな金を家から持ち出したに違いないと思っていた。庸三から見ると、二人の幻影は、それほどにも豪華に見えるのであった。コンビとしても申し分がなかった。もちろんそれは清川が、完全に家庭に叛逆《はんぎゃく》したと見られる場合のことであった。
 史朗は庸三の書斎へ入って来ると、少し興奮した目をして、
「今日行ってみましたら、清川さん本を売るのだそうで、部屋中取り散らかしていました。」
「どうして?」
「あすこは先輩の山上さんの奥にある借家ですから、何かにつけ窮屈なんでしょうか、今度|田端《たばた》の方へ家を見つけて、そこへ引き移るそうですから、金がいるんでしょう。」
 庸三は腑《ふ》におちなかった。一月もたつか経《た》たぬに、庸三の提供した金がもう無くなったのだろうか。もし清川がそれに手を着けるのを潔《いさぎよ》しとしないにしても、本を売らなくては引越しもできないほど、手元が不自由なのだろうか。
「そんなことないだろう。」
「いや、そうです。重に舞踊や美術に関する書物で、売るのは実に惜しいと言っていました。」
 それほど真剣なのかと庸三は悲痛な感じもした。
 それからまた少し経ってから、ちょうど田端へ引っ越したところを、史朗はわざわざ見に行って来た。そこは木造の二階建の古い洋風住宅で、コスモスでも作るに相応《ふさわ》しい前庭もあった。
 しかし史朗はその時、清川に頭臚《あたま》を殴《なぐ》られ、泣き面《つら》かきながら逐《お》い攘《はら》われて来た。
「何だって?」
 庸三が訊《き》くと、史朗は痛そうに頭臚をかかえて、
「奴《やっこ》さん何か興奮しているんでしょう。それに僕がちょいちょい覗《のぞ》きに行くもんで。しかしあれじゃ駄目だと思いますね。梢さん僕に詫《わ》びていましたけれど。」
 史朗も憤慨したものらしく、清川が葉子に値いしないことを歎《なげ》いていたが、それきり葉子の消息も絶えてしまった。

      二十五

 三月になってから、ある日も小夜子が庸三の書斎に現われた。庸三は今も時々晩飯を食べに、川沿いの家へタキシイを駆った。たまには人をつれても行ったが、一人の方が気易《きやす》かった。その時分になると庸太郎は小夜子と同伴でない限り、めったに父の書斎に姿を現わさなかったが、それもかえって庸三に都合の好いこともあった。庸三は初めひどくそれを警戒したのであったが、無駄であった。彼は子供の姿を見失わない限り、大抵のことは子供自身の判断に委《まか》せがちであった。それが子供に親切か不親切かはしばらく措《お》いて、子供たちをそれぞれの一人格として見る癖があった。それに彼の気持では若い時代は常に前時代より優れて
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