で髪を刈ることにした。しかし頭髪が出来あがった葉子が、いつまで待っていても上がって来ないので、降りて行ってみると、彼は椅子《いす》のうえに反《そ》りかえって、マニキュアと洒落《しゃ》れているのだった。
 葉子の消息が絶えてからも、彼は時には彼女を訪ねるらしかったが、肝腎《かんじん》のことは何一つ口にしなかった。するうちに彼の姿も足も途絶えがちになってしまった。
 葉子がどんな行動を取ろうと、それは手から難れた風船玉が雲へ入ったように、もうどうにもならないものであり、これで沢山だという気もしたが、何か腑《ふ》ににおちないものもなくはなかった。気を落ち着けていると、風のない湖水のように、波も立たないのであったが、心が少し揺れ出すと限りなく波が立ち騒ぎ、北を指す磁石のように、足が自然に下宿へ向いて行くのであった。多分もう下宿を引き揚げたであろうが、主人と話したら今まで知らなかった事実に触れることもできそうであった。
 玄関口へ出たのは、お神《かみ》であったが、
「ああ、先生ですか。まあこっちへお上がりになって。」
 お神はあわただしげに庸三を二階へつれて行って、
「梢さん今日お引越しですよ。今荷車が来たばかりで、荷物を積むところですから、ちょっとこっちへ来て御覧なさい。」
 際《きわ》どいところであった。庸三も下宿の前に荷車のあることは知っていたが、それが葉子の引越しの車とも思わず、その横を擦《す》りぬけて石段を上がったのだったが、そう言われて廊下へ出て、そっと硝子戸《ガラスど》から下を見下ろすと、ジャケツに薄汚い茶の中折を冠った運送屋の若い衆が、ちょうどしおじ[#「しおじ」に傍点]の本箱を持ち出すところであった。
「はは、なるほど。」
 庸三は苦笑したが、その時年少詩人の史朗がひょいと車の側へ出て来たので、彼はあっ[#「あっ」に傍点]と思って後ろへ跪坐《しゃが》んでしまった。
「このごろ誰か来たでしょう。」
「え、来ました、二三度。」
「何て男です。」
「さあ、お名前はおっしゃいませんが、若い方です。鼻の隆《たか》い目の大きい、役者みたいなねえ。」
「ふふむ、なるほど。」
 いつも庸三の予感に上って来る存在が清川でありはしたが、金をもって師匠をおとずれた時から、その予感はひとまず消えてしまったのであった。庸三はにわかに興奮を感じ、なお硝子戸の引いてある手摺《てすり》に靠《もた》れて、順々に荷物の積まれるのを見ていたが、小池の采配《さいはい》ですっかり積みこまれ縄《なわ》がかけられるのを見澄ましてから、煙草《たばこ》を一本取り出して喫《ふか》しはじめ、車の引き出されるのを待っていた。この期《ご》になって、にわかに金も惜しくなったが、 二人の顔も見たかった。庸三は車の動く方嚮《ほうこう》を見澄まし、少し間をおいてから下へおりて行ったが、外へ出てみた時には、荷車はすでに水道橋から一つ橋へ通う大道路を突っ切っていた。
 その辺は庸三も葉子と一緒に、しばしば自動車を乗り棄《す》てたり、呼び止めたりしたところで、夜おそくそのころ売り出しのブロチンやパンを買いに出たのもそこであった。
 一二町の距離をおいて、庸三は見え隠れに従《つ》いて行ったが、車の後になり先になりして、従いて行くのは葉子のトイレット・ケイスをぶら下げた少年詩人ばかりではなく、鷺《さぎ》のように細い脚をした瑠美子もいたし、お傅《つき》の北山も片手に風呂敷包《ふろしきづつみ》をもち、片手に瑠美子を掴《つか》まらせて、あっち寄りこっち寄りして、ふざけながら歩いていた。町はもう日暮に近く、寒い風が庸三の外套《がいとう》の翼に吹いていた。
 九段坂へ差しかかった時、荷車の後を押し押して、女連れに少しおくれて、えっちらおっちら登って行く少年詩人の姿がみえたが、そこまで来ると、庸三も何となし間が抜け、にわかに立ち止まった。これ以上追窮する必要はない。――庸三はそうも思ったが、やがてまた歩き出した。
 車の止まったのは、坂を登りきってから、左と右とへ二回まがった、富士見町のある賑やかな通りであったが、行きついて見ると、それは花屋で、飾り窓の厚硝子の中に、さながら花氷のように薄桃のベコニヤが咲き乱れていた。
 ふさわしい愛の巣だ――庸三は頬笑《ほほえ》ましげにも感じて、荷物の持ちこまれる露路を入って行った。花屋の勝手口がそこにあった。庸三は勝手元の廊下にある梯子段《はしごだん》を上り、荷物の散らかっている上がり口の三畳を突っ切って、いきなり部屋へ躍《おど》り込んでみたが、案に相違して、そこには瑠美子と北山がいるだけで、清川の姿も葉子も見えなかった。
「ヘえ、いないのか。」
 庸三は新調のふかふかしたメリンスの対《つい》の座蒲団《ざぶとん》の一つに、どかりと胡座《あぐら》をかくと、さも可笑《おか
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