の双方が互いに上がったり下がったりしていた。
 それに庸三は暮に師匠と清川の訪問を受け、何か思いがけないお歳暮まで貰《もら》っていた。ちょうど葉子も来ている時で、その贈物が二人を祝福するようにも取れたが、少し感潜《かんぐ》って考えると、すでに庸三から離れてしまっている、このごろの葉子の気持を汲《く》んでか、事によると今一歩進んで、師匠の斡旋《あっせん》によって、庸三の怒りを買うことなしに、穏和な解決を得ようとする手段の一つのようにも取れないこともなかった。もちろんその時の庸三に、そこまで見透《みとお》しのつくはずもなかったし、朗らかな師匠の談話や態度にも、そんな影は少しも差していなかったが、清川の態度には暗示的なものがないとは言えなかった。彼の若さと正直さは、この老作家の前にいい加減なお座なりは言ってはいられなかった。
「もう少し何とか巧く行きそうなものだと思いますがね。」
 清川は歯痒《はがゆ》そうに言うのであった。さながら清川自身だったら、もっと彼女を幸福にすることも、巧くリイドすることもできるはずだと言っているようであった。もしも庸三にもっと鋭敏な神経が働くか、理論的な頭脳があったら、多少挑戦的にも看《み》らるる清川の言葉に躊躇《ちゅうちょ》なく応酬したに違いないのであった。すると清川はあるいは進んで、破綻《はたん》百出のこの不自然な恋愛の不合理を説き、庸三自身のためにも、葉子のためにも、彼女を解放することを力説したかもしれず、事によるとあるいはすでに納得ずくの師匠もそれに助勢して、清川と葉子との恋愛を彼女の口から代弁告白することに、プログラムがちゃんと出来あがっていなかったとも限らないのであった。その場合、師匠が一歩先きに、自ら二人の恋愛を承認していなければならないのは、もちろんであった。
 しかし庸三は、その晩の彼らの真意を、そこまで深く探究する余裕はなかった。彼はただ嵐《あらし》の前の木の葉の戦《そよ》ぎを感じ、重苦しいその場の雰囲気のなかに、徒《いたず》らに清川と葉子との気持を模索するにすぎないのだった。
 やがて四人打ち揃《そろ》って外へ出てみたのであったが、葉子は部屋にいたときと同じく、始終物思わしげに、俛《うつむ》きがちに歩いており、清川の靴の音だけが、すでに春の装いもできた晦日《みそか》ぢかくの静かな町に、ぽかぽかと響くのであった。
 間もなく大晦日の夜更《よふ》けの出来事が起こった。それが一層彼らの行動に拍車をかけたであろうが、庸三の贈った金の行き途《ど》についても、後にだんだん臆測癖《おくそくぐせ》の強い庸三の心にはっきりした形を与えて来た。

 ある日庸三は、ふと神田の下宿を訪ねてみた。横封に入れた金を、師匠に托《たく》してから、いくらかの日がたっていた。
 金を師匠に届けに行った時、清川もちょうど彼女の側にいたが、師匠は取っていいものが悪いものかと、少し躊躇していた。
「まあ、そんなに?」
「しかし私も後の気持が悪いから。」
「ではお預かりしておきますわ。あの人のことですから、一時にあげてもどうかと思いますがね。」
「それも貴女《あなた》にお任せします。」
「いや、それはやはり貴女の保管すべきものじゃないだろうね。」
 清川が言うと、師匠も軽く額《うなず》いた。
「そうね。」
 そんな簡短な会話が取り交され、ちょうど地震があったので、庸三と師匠が踊りの床へ上がって、窓の方へ出て見たが、間もなく暇《いとま》を告げた。
 そのころ庸三の家に、年少の詩人が一人いた。小池史朗というその詩人は、その肉体から言っても性癖から言っても、不思議な存在であった。葉子との郷里の※[#「※」は「夕」の下に「寅」、第4水準2−5−29、305−上−13]縁《いんえん》で庸三を頼って来たものだったが、詩の天才的才分は、庸三も認めないわけに行かなかった。朝から晩まで着たきりの黒サアジの背広に赭《あか》いネクタイ、それにベレイを冠《かぶ》った彼の風貌《ふうぼう》は、体の小さいせいもあったが、生白い皮膚も筋肉も気持のわるいほどふやふやしていて、大抵の人に男装の女子と看《み》られるのに無理はなかった。彼は牝豹《めひょう》の前の兎《うさぎ》のごとく、葉子を礼讃《らいさん》し、屈従していた。処女のような含羞《はにかみ》があるかと思うと、不良少年のような聡慧《そうけい》さをもっていたが、結局人間的には哀れむべき不具者としか思えなかった。彼は傷ついた鳩《はと》のごとく、ややもすると狭心症の発作に悩まされがちなので、常住ポケットにジキタリスの小壜《こびん》を用意することを忘れなかった。ある時彼は葉子について、そのころ銀座にあったメイ・ハルミヘ行ったが、ちょうどその階下《した》が理髪屋であったところから、葉子がウエイブをかけている間、彼も階下
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