もこの道には長《た》けたはずの雪枝のことなので、いくら葉子の情熱でも瑠美子との師弟の情誼《じょうぎ》を乗り超《こ》えてまで、恋愛には進まないであろうし、若いマルキストの清川が、やすやすそれを受け容《い》れもしないであろう。その理由はもちろん薄弱であった。何の防禦《ぼうぎょ》にもならないことも解《わか》りきっていたが、庸三はわざとその問題には顔を背向《そむ》けようとしていた。
そのころ葉子は美容師メイ・ハルミから持って来た、アメリカの流行雑誌のなかから、自分に似合いそうなスタイルを択《えら》んでいたが、一つ気に入ったのがあったので、特に庸三に強請《ねだ》って裂地《きれじ》や釦《ボタン》などをも買い、裁断に取りかかっていた。別に洋裁を教わってはいないのだったが、とにかく裁《た》った。裂はオレンジ色のサティンだったが、全部細かい襞《ひだ》から成り立ったスカアトに、特徴があると言えるのであった。葉子は清川に着てみせるのを楽しみに、縫っているのだったが、庸三はそんなこととも知らずに、その型にも地の色にも首を傾けながらも、けちをつける隙《すき》もなくて、黙って見ていた。
その時葉子は、庸三の家で年を越すつもりで、ちょうど瑠美子を連れて来ていた。庸三の長女は女中を相手に春の用意に忙しかったが、瑠美子は十畳の子供部屋で、栄子と羽子《はね》をついていた。大きい子供たちの中には、銀座へ出て行ったものもあった。庸三は仕事をもってホテルヘ出ていた二年前の晦日を憶《おも》い出すまいとしていた。友人と一緒に捏《こ》ねかえす人込みの銀座へ出て、風月で飯を食ったことや、元日に歌舞伎《かぶき》で「関の扉《と》」を見て、二日の朝|夙《はや》くにけたたましいベルに起こされ、妻がにわかに仆《たお》れたことを知り、急いで帰ってみると、その午後はすでに泣き縋《すが》る子供の声を後にして、死んで行く彼女であったことも、憶い出したくはなかった。しかし葉子が彼の部屋で、せっせと針を運んでいるの見ていると、何か苛立《いらだ》たしいものを感じるのだった。
葉子は静かに白い手を動かしていたが、しんみりした声で言いだした。
「今になってみると、よくここまで来たものだと思えてならないわ。私こうなるはずじゃなかったんですもの。自分の気持がはっきり見えるのよ。」
庸三はその瞬間はっとした。誰とも知れない彼女のなかにあるものが――背後の影が仄《ほの》かに感じられて来た。
「僕がここまで引き摺《ず》って来たというんだろ。」
「そうじゃないのよ。私は結果を言ってんのよ。」
「そう、解ったよ。じゃ別れようよ。」
しかしそのままに過ごした夜も更《ふ》け、遠近《おちこち》におこる百八|煩悩《ぼんのう》の鐘の音も静まってから、縫いあがった洋服を着てみせて、葉子も寝床へ入ったのだったが、庸三は少しうとうとするかと思うと、また目が冴《さ》えだして、一旦葉子の態度で静まりかけていた神経が、今度は二倍も三倍もの力で盛りかえして来るのだった。彼は床をはねおきると机の前へ来て坐った。葉子も目をさまして、彼の坐っているのに気づいて、白い手を伸べた。
「なに怒ってるのよ。寝てよ。意地悪ね。」
「早く下宿へ行って寝たまえ。」
葉子もむっくり床から起きだした。そしてぶつぶつ言いながら洋服を着ると、今度は子供部屋から瑠美子を引っ張って来た。
「こんな大晦日の夜なかに人を表へ追ん出すなんて、それで大家もないもんだ。」
泣き声で喋《しゃべ》りながら、瑠美子に洋服を着せると、そのまま出て行った。玄関の硝子格子《ガラスごうし》をしめる音につづいて、門をしめる音が、明け方ちかい彼の書斎にまで響いた。
二十四
正月になってから、別れた後をいくらか潔《いさぎよ》くしておきたい気持で、かなり纏《まと》まった金を舞踊の師匠を介して、今度は全く自発的に葉子に贈ることにした。それと云うのも、葉子と瑠美子の身のうえについて、師匠とその若い愛人の清川とが、何かと面倒を見てくれそうな形勢があり、葉子も一人には人生的に一人には文学的に頭脳《あたま》のあがらないところがあり、そこに一つの雰囲気《ふんいき》の醸《かも》されているのを看《み》て取ったからで、そうなると葉子親子の存在も、彼らグルウプの新らしい時代の社交範囲のなかに華々《はなばな》しく復活するわけで、一人取り残された庸三の姿が、どんなに見すぼらしいものであるかは、彼には想像できないことでもなかった。もちろん今度に限らず、庸三の嫉妬《しっと》には、いつもそうした心理の裏附けがあり、葉子を文壇的に生かすために、軽率にも最初から正面を切ってしまった庸三の、それが世間的見えでもありはかない自尊心でもあった。この見えと打算とが、いつも庸三の腹のなかで秤《はかり》にかけられ、そ
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